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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 19|まだ開かない絵

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目次

まだ開かない絵

玄関の扉が閉まると、外の明るさが一枚切り取られた。

澪は靴を脱ぎ、抱えていた作品を壁際へ立てかけた。

厚い保護紙の角が床に触れ、かすかな音を立てる。

「ただいま」

「おかえり」

台所から奏人の声が返ってきた。

結菜とは門の前で別れている。家の中には、換気装置の低い音と、包丁がまな板へ当たる一定の音だけがあった。

澪は通学鞄を肩から下ろそうとして、肩の奥に鈍い痛みを感じた。

昨日の水やりと、午後の美術から家まで抱えてきた絵。

荷物を下ろしても、重さだけが腕に残っている。

奏人が台所から顔を出した。

「それ、返ってきたのか」

澪は壁際の作品を見る。

「うん」

「コンクールの?」

「うん」

奏人は近づいてきたが、保護紙には触れなかった。

「状態は?」

「傷はなかった」

「そうか」

それだけ確認すると、また台所へ戻っていく。

澪は少しだけ、その背中を見ていた。

開けてみようとは言わない。

結果が出たとき、奏人は学校の展示会場で実物を見ている。作品の前で少し離れたり、近づいたりしながら、しばらく立っていた。

玲が見たのは、送った画像だけだった。

澪は作品を持ち上げ、リビングのテーブルの横へ移した。

窓から差し込む夕方の光が、保護紙の表面を斜めに横切っている。

今ここで開けば、乾いた絵具の凹凸が見える。

塗り重ねた青が、光の角度によって少しずつ違う色を返す。

奏人もいる。

けれど、留め具へ手を掛ける気にはならなかった。

「冷蔵庫に飲み物あるぞ」

台所から声が飛んでくる。

「うん」

返事をしても、澪はその場から動かなかった。

保護紙の上には、学校名とコンクール名が記された管理票が貼られている。

作品名。

学年。

氏名。

審査結果。

並んでいる文字は、絵について間違いなく説明していた。

それでも、その紙をどれだけ読んでも、青を何度塗り直したのかは分からない。

筆を止めた時間も、乾くのを待っていた夜も、最後に光を置いたときの指の震えも書かれてはいない。

澪は保護紙の端を指でなぞり、手を離した。

*

着替えてリビングへ戻ると、奏人は夕食の下ごしらえをしていた。

細く切られた野菜が、まな板の上に色ごとに分けられている。

「今日は早いね」

「夜に少し作業があるからな」

奏人は鍋へ水を入れた。

「パパ、ママとの通信、何時?」

「向こうの作業次第だけど、八時半くらい」

澪は壁の時計を見る。

まだ三時間以上ある。

「今日は話せるの?」

「予定では」

予定では。

玲との通信では、よく使われる言葉だった。

遺構の調査は、時間どおりに終わらないことがある。測定値が変われば確認が増え、現地の担当者に呼ばれれば、通信の途中でも席を外す。

玲が悪いわけではない。

澪も分かっている。

分かっているから、通信が短くなっても不満を言わなかった。

鍋の底から、小さな泡が一つずつ浮かび始める。

「絵、今日返されたのか」

奏人が尋ねた。

「うん」

「先生は何か言ってた?」

「光の表現はよかったって。手前の空間をもう少し見せた方がいいって」

「前と同じか」

「だいたい」

「澪はどう思う?」

「分からない」

奏人はそれ以上聞かなかった。

澪はテーブルの横に立てた作品へ目を向ける。

「パパ」

「ん?」

「画像と、実物って違うよね」

包丁を動かしていた奏人の手が、一度止まった。

「違うな」

「どっちが本物?」

「実物だろ」

奏人は答えたあと、少し考えた。

「ただ、画像が偽物というわけでもない」

「じゃあ、何?」

「実物から、ある条件だけを残したもの」

鍋の蓋を少しずらし、立ち上がった湯気を逃がす。

「色と形を運ぶには便利だ。でも、重さや大きさ、その場の光までは全部持っていけない」

澪は黙って聞いていた。

「ママは、画像しか見てない」

「そうだな」

「でも、見たって言ってた」

奏人は振り返った。

澪を責めるような顔ではなかった。

「ママは、画像で見られるものを見たんだと思う」

「それだけ?」

「それが少ないとは限らない」

奏人は手を洗い、布巾で拭いた。

「でも、同じではないな」

澪は作品へ目を戻した。

奏人の答えは、どちらか一方を正しくはしなかった。

画像を見た玲も、間違ってはいない。

実物を見てほしいと思う澪も、間違ってはいない。

それでも、胸の中の小さな引っかかりは消えなかった。

「開けないのか?」

奏人が尋ねる。

澪は保護紙の留め具を見る。

「あとで」

「ママと話すとき?」

少し迷ってから、頷いた。

「一緒に見たいから」

言葉にすると、思っていたより小さな願いに聞こえた。

奏人は笑わなかった。

「分かった」

それだけ言って、再び料理へ戻った。

*

夕食が終わり、食器を片づけても、作品はまだ閉じたままだった。

澪は一度、自室へ運ぼうとしたが、結局リビングへ残した。

八時二十五分。

奏人が投影装置を起動する。

テーブルの中央に淡い光が広がり、接続待機の表示が浮かんだ。

澪は作品を椅子の横へ移した。

投影の中へ入りやすい位置。

玲が見やすい角度。

それでも、留め具は外さなかった。

「緊張してるのか?」

奏人が尋ねる。

「別に」

「そうか」

接続音が鳴る。

光が縦に伸び、その中に砂色の地面と白い作業着が現れた。

玲は簡易テントの中にいた。

髪を後ろでまとめ、首元に冷却布を巻いている。頬には薄く土がついていた。

「こんばんは」

玲が笑う。

「そっちは、もう夜ね」

「こんばんは、ママ」

澪は玲の顔を見た。

昨日より少し疲れているように見える。

それでも、声はいつもと同じだった。

「学校、どうだった?」

「普通」

「筋肉痛は?」

澪は腕を少し上げた。

「まだ痛い」

「結菜ちゃんも?」

「同じところが痛いって」

玲が笑った。

「二人とも頑張ったものね」

奏人が現地の調査状況を尋ねる。

玲は測量結果と、水脈反応の変化について短く説明した。

澪には半分ほどしか分からなかった。

その間も、椅子の横の作品が気になっていた。

早く見せたい。

けれど、話を遮ってよいのか分からない。

玲の説明が終わると、澪は作品へ手を伸ばした。

「あのね、ママ」

「なに?」

「今日――」

そのとき、玲の背後で短い警告音が鳴った。

誰かが遠くから玲を呼ぶ。

玲は振り返り、手元の端末を確認した。

「ごめんなさい。少し待って」

玲の姿が投影の中央から外れる。

現地の声が幾つか重なり、地図らしき表示が空中へ開いた。

澪は作品へ掛けていた手を離した。

奏人が現地の表示を見る。

「測定器か?」

「たぶん」

数十秒後、玲が戻ってきた。

「地下側の反応が少し変わったみたい。確認に行かないと」

「今から?」

奏人が尋ねる。

「すぐ近くだから。長くはかからないと思うけど――」

玲は澪を見た。

「さっき、何か言いかけた?」

澪は椅子の横の作品を見る。

保護紙の端が、投影の光を受けて白く浮かんでいた。

「今日、絵が返ってきた」

玲の表情が明るくなる。

「コンクールの?」

「うん」

「見せて」

玲はすぐに言った。

澪の指が、留め具へ触れる。

けれど、玲の背後でまた誰かが呼んだ。

玲は振り返り、困ったように眉を下げた。

「ごめん。ちゃんと見たいから、戻ってからでもいい?」

澪は指を止めた。

「うん」

「本当にごめんね。今日はあとで接続できると思う」

「大丈夫」

澪は答えた。

玲はもう一度謝り、奏人へ短く何かを伝えたあと、通信を切った。

光が消える。

リビングには、閉じたままの作品と、澪の手だけが残った。

奏人は何も言わなかった。

壁の時計が、小さく一分進む。

澪は留め具から手を離し、作品を持ち上げた。

「部屋に持っていく」

「手伝おうか?」

「大丈夫」

作品は重かった。

階段を上るたび、昨日から残る腕の痛みが戻ってくる。

自室に入ると、澪は作品を机の横へ立てかけた。

窓の外では、庭の照明を受けた木の影が揺れている。

保護紙を開けば、今でも一人で見ることはできる。

けれど、澪は照明を消した。

暗くなった部屋で、作品の輪郭だけが窓からの光に残った。

ママが戻ってくるまで。

澪はそう思った。

何時になるかは、まだ分からなかった。

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