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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 20|裏返した絵

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目次

裏返した絵

澪が自室へ上がってから、三十分ほど経っても通信は再開されなかった。

机の横には、閉じたままの作品が立てかけてある。

窓から差し込む庭の照明が、厚い保護紙の縁だけを白く浮かび上がらせていた。

澪はベッドへ座り、端末の時刻を見る。

九時十二分。

玲からの連絡はない。

遺構の調査が予定どおりに終わらないことは珍しくなかった。

少し待つと言われて一時間になることもある。
通信の約束そのものが翌日へ延びることもある。

それでも今日は、いつもより時間が遅く進んでいる気がした。

澪は机へ向かい、学校で結菜と書き出した記録を開いた。

白い髪。

水の向こう。

声は聞いていない。

自分を見ていた気がした。

結菜の記録には、横を向いていたと書かれている。

寂しそうだった。

二人の言葉を並べると、同じ少女について書いたものには見えなかった。

それでも、どちらかを消す気にはならない。

澪はノートの余白へ、二つの小さな人影を描いた。

一人は正面を向いている。

もう一人は横顔だった。

どちらも輪郭だけで、髪や服は描かなかった。

描き終えてから、二人の間へ細い水面の線を引いた。

そのとき、机上の端末が震えた。

澪はすぐに画面を開く。

表示されたのは玲からの直接通信ではなく、奏人を経由した短いメッセージだった。

《地下測定の確認が長引いています。今日はもう通信に戻れないかもしれません。ごめんね。絵は必ずゆっくり見せてください》

澪は文章を一度読み、もう一度読んだ。

必ず。

ゆっくり。

見せてください。

玲が自分で入力したのか、音声から変換されたのかは分からない。

最後には、玲がよく使う小さな光の記号が一つ付いていた。

澪は返信欄を開く。

《分かった》

と入力した。

そのあとに何か付け足そうとして、指が止まる。

《大丈夫》

と書きかけ、消した。

大丈夫ではない、と言いたいわけではなかった。

玲を責めたいわけでもない。

ただ、何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。

澪は《分かった》だけを送信した。

画面が暗くなる。

机の横の作品は、まだこちらを向いている。

澪は立ち上がり、両手で保護紙の端を持った。

昨日から残る腕の痛みが、持ち上げる動作に合わせて戻ってくる。

作品を百八十度回し、壁の方へ向ける。

管理票も、作品名も、審査結果も見えなくなった。

澪は何も描かれていない裏面をしばらく眺めた。

白く、平らで、光をほとんど返さない。

絵が消えたわけではない。

ただ、今は見えない側へ向けただけだった。

*

階下では、奏人が一人でリビングに残っていた。

玲との連絡画面には、短い音声記録が届いている。

『ごめんなさい。地中側の温度分布が変わったの。澪に、今日は難しいって伝えてくれる?』

声の後ろには、風と人の足音が混じっていた。

奏人は返信を送る。

《伝えた。絵は開いていない》

既読の表示がつくまでには少し時間がかかった。

『そう』

玲の返事は、それだけだった。

その一文字に、疲労と落胆の両方があった。

奏人は通信画面を閉じず、少し待った。

やがて玲から、もう一つ短い文が届く。

《早く帰りたい》

奏人は画面を見つめた。

それが今夜の調査地点から宿舎へ戻りたいという意味なのか、日本の家へ帰りたいという意味なのかは尋ねなかった。

《もう少しだ》

とだけ返した。

玲から返事はなかった。

奏人は照明を落とし、テーブルの上に残っていた水のグラスを片づける。

投影装置のそばには、さっきまで作品が置かれていた空間だけが空いていた。

*

翌朝、澪がリビングへ下りると、奏人はすでに朝食を用意していた。

焼いたパン。

薄く切った果物。

昨夜の残りの野菜を入れた卵料理。

いつもと同じ朝に見えた。

ただ、テーブルの端に見慣れない小さな端末が置かれている。

澪が椅子へ座ると、奏人はすぐに端末を伏せた。

「それ、何?」

「確認用」

「何の?」

「仕事の」

奏人は短く答え、澪の前へ皿を置いた。

澪は伏せられた端末を見る。

側面に、旅券管理局の小さな印が見えた気がした。

けれど奏人はもう、冷蔵庫から飲み物を取り出している。

「ママ、戻った?」

澪が尋ねる。

「宿舎には戻った。今は寝てる」

「何時?」

「向こうの夜九時半くらい」

「そうじゃなくて、こっちの時間で」

奏人は少し考えた。

「三時半くらいだったと思う」

澪はパンを千切った。

まだ少し温かい。

「測定、どうだったの?」

「数値がずれただけらしい。原因は調査中」

「セフィリアと関係ある?」

奏人はすぐには答えなかった。

「分からない」

「三つの碑文とは?」

「それも分からない」

「全部分からないね」

澪が言うと、奏人は卵料理を切り分けた。

「分からないものが増えたのは、分かったことが増えたからだ」

澪は顔を上げる。

「どういうこと?」

「何も知らなければ、疑問も一つしかない。調べて線が増えると、分からない場所も増える」

「それって、進んでるの?」

「たぶん」

奏人はそう言った。

「少なくとも、戻ってはいない」

澪はパンを口へ運んだ。

噛むと、表面の乾いた音が小さく鳴る。

「絵は?」

奏人が尋ねた。

「部屋にある」

「開いた?」

「開いてない」

「そうか」

それ以上は聞かなかった。

澪は少し迷ってから言う。

「裏返した」

奏人の手が止まる。

「見たくないのか?」

「そうじゃない」

「じゃあ、何で?」

澪は答えを探した。

見たくないわけではない。

むしろ、開きたい。

けれど一人で開いてしまうと、玲と見たかった時間まで、自分だけで先に進んでしまうような気がした。

「まだ、表にしなくていいと思ったから」

奏人はしばらく澪を見ていた。

「分かった」

昨日と同じ答えだった。

奏人は伏せていた端末を取り、台所の棚へしまう。

その動作がいつもより少しだけ早かった。

「パパ」

「ん?」

「何か隠してる?」

奏人は棚の扉を閉めた。

「何でそう思う」

「今の端末」

「仕事だ」

「昨日から変」

「普段からこんなものだろ」

「そうかも」

澪は果物を一切れ取った。

奏人は平然と朝食を続けている。

けれど、澪が見ていないと思った瞬間、棚の方へ一度だけ視線を向けた。

その視線を、澪は見逃さなかった。

*

登校前、澪は自室へ鞄を取りに戻った。

机の横では、作品の裏側がこちらを向いている。

朝の光は窓から入り、白い保護紙の上へ薄い四角形を作っていた。

澪は作品へ近づいた。

裏返そうと思えば、すぐにできる。

それでも手は伸ばさなかった。

代わりに、保護紙の上へ指先を置く。

絵のある側は、壁側に隠れている。

ママが見た画像も、先生の講評も、審査結果も、今は見えない。

それでも作品は、そこにある。

澪は指を離し、通学鞄を肩へ掛けた。

昨日より、腕の痛みは少しだけ軽くなっていた。

玄関へ向かおうとしたとき、端末に結菜からメッセージが届いた。

《調査会、今日もやりますか》

澪は少し考え、

《放課後。昨日のノート持ってきて》

と返した。

送信後、澪は机の横の作品を見た。

少し迷って、もう一文を付け加える。

《昨日の絵、まだ開けてない》

すぐに結菜から返信が来た。

《玲さんと一緒に見るんだっけ》

《うん》

澪は作品の裏面を見る。

《でも、白い子のことと少し関係あるかもしれない》

《どういうこと?》

澪は少し考えた。

《まだ分からない》

送信してから、澪自身がその言葉を見つめた。

何がどう関係しているのかは、まだ分からない。

ただ、画像には映らなかった絵の厚みと、二人には違って見えた白い少女が、どこか同じ場所へつながっている気がした。

澪は端末をしまい、部屋を出た。

扉が閉まる。

朝の光だけが残り、裏返された絵の向こう側で、見えない青が静かに明るくなっていた。

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