市場の匂い
海沿いの道から坂へ戻る手前で、玲が足を止めた。
「少し寄っていこうか」
建物の間に、布の日よけが見えた。
その下を、人が行き来している。
「市場?」
「うん。お昼のもの、買って帰ろう」
澪は頷いた。
海から離れたのに、まだ頬に風が残っている気がした。
*
入口の店では、丸いパンが籠に積まれていた。
その隣には、薄く伸ばして焼いたものが布に包まれている。
澪がそちらを見ると、奥で店の人が新しい一枚を持ち上げた。
焼けた面に、小さな膨らみがいくつもあった。
「いい匂い」
言ったところで、別の匂いがした。
青い葉を揉んだような、少し鋭い匂い。
顔を向けると、隣の台に香草が束で並んでいた。通りかかった人の袋が触れ、葉の先が揺れている。
その向こうには果物があった。
赤いもの。黄色いもの。濃い紫のもの。
日よけの端から落ちた光が、山積みの一角だけを明るくしていた。
澪は端末へ手をかけた。
「結菜ちゃんに?」
玲が聞いた。
「うん。でも……」
パンを見て、香草を見た。
店の奥で何かを焼く音がする。石畳は一部だけ濡れていて、そこを踏んだ靴の裏が小さく鳴った。
「多すぎる」
玲が笑った。
「一つずつでいいんじゃない?」
そう言ってから、通路の先へ手を上げる。
果物の店の人が、玲に気づいて何か言った。
玲も短く返す。
澪には聞き取れなかったけれど、玲の声がいつもより少し高くなったのは分かった。
店の人が澪と奏人を見て、笑顔になった。
「娘と、夫」
玲が二人を順番に示す。
澪は小さく頭を下げた。
すると店の人は、台の下から浅い皿を出してきた。赤い実が一口ずつに切られ、細い串が添えてある。
「食べていいって」
澪は玲を見てから、一つ取った。
口に入れると、まず甘かった。
噛んだあとで、酸味が広がった。
皮が少しだけ歯に残る。
「……トマト?」
玲が頷く。
「甘い種類なの」
澪は、切られる前の実を見た。
いつも食べているものより、小さくて丸い。
「果物みたい」
店の人は澪の顔を見て、満足そうに笑った。
玲が何か伝えると、今度は台の端に置かれた別の籠を指した。
*
玲は二つの実を手に取り、一つを澪へ渡した。
「こっちも嗅いでみて」
掌に乗せると、思ったより温かかった。

澪はへたの近くへ鼻を寄せた。
青い匂いがする。
玲が持っていた方も受け取る。
そちらには、さっき口にした甘さを思い出す匂いがあった。
「こっち、さっきの?」
「そう。お昼はどっちがいい?」
「こっち」
澪が甘い方を少し持ち上げると、玲は店の人へ頷いた。
いくつか選んで、袋へ入れてもらう。
「ママは、いつもこっち?」
「一人のときは、もう少し酸っぱい方」
「今日は?」
「澪が気に入ったから、こっち」
澪は台の上の二つの籠を見た。
「パパは?」
「パパはどっちも食べる」
「聞こえてるぞ」
少し離れたところから、奏人の声がした。
振り返ると、香辛料の店の前にいた。
片手に、小さな包みを持っている。
「何買ったの?」
「まだ買ってない。匂いを見てた」
澪が近づくと、奏人は包みを少し開いた。
乾いた、温かい匂いがした。
鼻を近づけすぎて、澪は顔を引いた。
奏人が笑う。
「強いだろ」
「うん。でも、知ってる」
もう一度、今度は少し離れて嗅ぐ。
「何だったかな」
名前より先に、結菜の家の台所が浮かんだ。
鍋の蓋を開けたときの湯気。
けれど、この匂いだけではなかった気がする。
「結菜なら分かるかも」
「名前、控えておこうか」
奏人が言った。
澪は頷き、今度こそ端末を出した。
店の人に確かめてから、包みの表示を撮る。
写真の下へ、短く書いた。
《これ、何に使ったっけ》
少し考え、付け足す。
《今、市場にいる》
送ると、玲が隣から画面をのぞいた。
「結菜ちゃん、忙しくなりそうね」
*
買い物の途中で、玲は何度か呼び止められた。
パンの店では、薄いものを三枚頼んだあとで、もう一枚増やした。
チーズの店では、いつも買うものの置き場所が変わっていて、店の人に教えてもらっていた。
澪はその後ろについて歩く。
玲は迷わず曲がったり、立ち止まったりする。
この道を何度も通っているのだと思った。
「ママ、いつもここで買うの?」
「時間があるときはね」
「忙しいときは?」
「拠点で食べたり、帰りに何か買ったり」
玲はパンの包みを袋の上へ置いた。
「ここへ来ると、買う予定じゃなかったものも増えるから」
「今日も?」
「今日も」
袋の口から、香草の葉が出ていた。
奏人の手にも、さっきの小さな包みがある。
澪は笑った。
出口に近づくと、魚の匂いがした。
その先では石畳に水を撒いていて、日なたに出た途端、温まった石の匂いも戻ってきた。
海で結菜へ送った言葉を思い出す。
今日は、まだ増える。
端末が短く震えた。
《この前のスープ。ほかのも混ぜた》
結菜からだった。
澪は奏人の袋を見る。
《パパが買った》
《じゃあ帰ったら使おう》
澪は画面を見ながら頷いた。
玲に呼ばれ、端末をしまう。
今度は、坂を上る道だった。
*
宿へ戻ると、室内はひんやりしていた。
澪は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。
玲が買ったものを台所へ運ぶ間に、奏人と絵のケースを開ける。
取り出した絵を見ていると、玲が手を拭きながら戻ってきた。
「ここはどう?」
食卓から見える、窓の横の壁だった。
直射日光の届かない位置に奏人が整え、澪は少し離れて見た。
「うん」
玲も隣に立つ。
「食べながらも見られるね」
そのまま二人で少し眺めてから、玲が澪の肩へ軽く触れた。
「じゃあ、お昼にしよう。手、洗ってきて」
*
昼食は、小さな庭のテーブルに並べた。
薄いパン。
切ったトマト。
白いチーズと、焼いた野菜。
玲が香草をちぎり、油と混ぜて上から掛けると、澪は顔を近づけた。
「これ、さっきの店の匂い」
「オレガノ。少し強い?」
「ううん」
パンに野菜を乗せて食べる。
温かいところと、チーズの冷たいところが一緒になった。
トマトを噛むと汁が出て、澪は慌てて皿の上へ手を戻した。
玲も同じようにパンを折っていた。
奏人は一口食べてから、皿に残った油へパンの端をつけた。
澪も真似をする。
香草の匂いが、さっきよりよく分かった。
「おいしい」
「よかった」
玲はもう一切れ、野菜を取った。
庭の壁の向こうから、人の話し声が聞こえた。
言葉は分からない。
ときどき笑い声になり、それから遠ざかった。
「ママ、一人のときもここで食べる?」
「涼しい日はね。暑い日は中」
「今日は涼しい?」
「まだ大丈夫。もう少ししたら、ここまで日が来る」
玲がテーブルの端を指した。
石の床に、明るい四角が落ちていた。
澪は椅子の脚の影と、その四角の間を見た。
食べ終わるまでには、届かない気がした。
*
「帰るときも、ここのパン買えるかな」
澪が言った。
「朝なら開いてると思う」
玲は答えてから、奏人を見た。
「出る時間、何時だった?」
「まだ余裕はある。前日に確認しよう」
「もう帰りの話?」
玲が笑う。
「澪が始めたんだろ」
奏人に言われ、澪も笑った。
それから、少しだけ間が空いた。
「ママは、一緒には帰れないんだよね」
玲が澪を見る。
「うん。私はもう少し、こっちに残る予定」
「そっか」
澪はパンの端をちぎった。
分かっていた。
けれど三人で食べていると、帰るときもこのままのような気がしていた。
「日が決まったら、教えて」
「もちろん」
「決まってからでいいから」
玲は頷いた。
「ちゃんと伝える」
澪はちぎったパンを食べた。
皿には、トマトがもう一つ残っている。
玲が手を伸ばしかけて、澪の顔を見た。
「食べる?」
「半分」
玲はそれを二つに切り、片方を澪の皿へ置いた。
もう片方は、自分で食べた。
*
食器を運び終えた頃、玲の端末が鳴った。
玲は手を拭いて画面を見た。
短く返事を入力し、テーブルへ置く。
「仕事?」
「明日の予定の確認」
「明日は行くの?」
「午前中、拠点には顔を出すつもり」
澪は玲の隣へ座った。
「遺構も近い?」
「場所によるけど、車で行けるよ」
「ママが調べてるところも?」
玲は頷いた。
澪は市場での玲を思い出した。
パンの店へ迷わず入ったこと。
知らない言葉で呼び止められ、振り向いた顔。
宿へ帰る道で、日陰のある側へ自然に渡ったこと。
通信で話している間にも、玲はその前とあとに、こうしてどこかを歩いていた。
「私も、見に行きたい」
玲は少し姿勢を変えた。
「遺構?」
「うん。ママがいつも見てるところ」
「全部は回れないよ」
「見られるところでいい」
奏人が、拭いた皿を棚へ戻して振り返る。
「歩く方は大丈夫か。今日も結構歩いたぞ」
澪は足を少し伸ばした。
疲れていないわけではなかった。
でも、昨日の眠さとは違う。
「今日は休む。明日なら」
玲が笑った。
「じゃあ、入れる場所を確認してみるね」
端末を手に取り、予定を開く。
澪は横からのぞきかけて、待った。
玲がいくつか確かめ、連絡を送る。
「暑くなる前に出よう。帽子と、水と」
「歩ける靴」
奏人が続けた。
「持ってきたよ」
「それなら大丈夫」
玲は端末を置いた。
「明日は私が案内する」
澪は頷いた。
市場で玲について歩いた道より、ずっと先まで行ける気がした。
*
午後の部屋で、澪は端末に残った写真を見た。
海。
海を背に並ぶ玲と奏人。
香辛料の包み。
市場の写真は、それだけだった。
果物も、パンも、撮っていなかった。
けれど、赤い実を持った掌の温かさは覚えている。
試食の汁が甘かったことも、鼻を近づけすぎたときに奏人が笑ったことも。
結菜とのトークを開いた。
《甘いトマト食べた。チーズとパンに乗せた》
すぐには返事が来なかった。
日本はもう夜だった。
澪は続けて書いた。
《市場の匂い、いっぱいあって書ききれない》
送ってから、昼食の写真も撮っていなかったと気づいた。
少し残念だった。
明日からは全部撮ろうかと思い、たぶん無理だと思った。
《明日はママに遺構を案内してもらう》
三つ目を送ったところで、結菜から返信が来た。
《いいね。歩くの?》
《うん。帽子と靴と水って》
《水は忘れないでね》
《二人にも言われた》
《三人目》
澪は笑った。
少しして、もう一つ届く。
《トマトの話、帰ったら詳しく》
澪は今日の甘さを思い出しながら、《うん》と返した。
廊下から玲の声がした。
「澪、明日の靴、どこに入ってる?」
「鞄の下」
「これ?」
澪は端末を置き、部屋を出た。
玲が靴を一足、手に持っている。
その隣で奏人が、自分の靴の留め具を確かめていた。
澪も鞄から靴下を出した。
玄関に三人分の靴が並ぶと、明日出かけることが、少し本当になった。


