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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 31|市場の匂い

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目次

市場の匂い

海沿いの道から坂へ戻る手前で、玲が足を止めた。

「少し寄っていこうか」

建物の間に、布の日よけが見えた。

その下を、人が行き来している。

「市場?」

「うん。お昼のもの、買って帰ろう」

澪は頷いた。

海から離れたのに、まだ頬に風が残っている気がした。

*

入口の店では、丸いパンが籠に積まれていた。

その隣には、薄く伸ばして焼いたものが布に包まれている。

澪がそちらを見ると、奥で店の人が新しい一枚を持ち上げた。

焼けた面に、小さな膨らみがいくつもあった。

「いい匂い」

言ったところで、別の匂いがした。

青い葉を揉んだような、少し鋭い匂い。

顔を向けると、隣の台に香草が束で並んでいた。通りかかった人の袋が触れ、葉の先が揺れている。

その向こうには果物があった。

赤いもの。黄色いもの。濃い紫のもの。

日よけの端から落ちた光が、山積みの一角だけを明るくしていた。

澪は端末へ手をかけた。

「結菜ちゃんに?」

玲が聞いた。

「うん。でも……」

パンを見て、香草を見た。

店の奥で何かを焼く音がする。石畳は一部だけ濡れていて、そこを踏んだ靴の裏が小さく鳴った。

「多すぎる」

玲が笑った。

「一つずつでいいんじゃない?」

そう言ってから、通路の先へ手を上げる。

果物の店の人が、玲に気づいて何か言った。

玲も短く返す。

澪には聞き取れなかったけれど、玲の声がいつもより少し高くなったのは分かった。

店の人が澪と奏人を見て、笑顔になった。

「娘と、夫」

玲が二人を順番に示す。

澪は小さく頭を下げた。

すると店の人は、台の下から浅い皿を出してきた。赤い実が一口ずつに切られ、細い串が添えてある。

「食べていいって」

澪は玲を見てから、一つ取った。

口に入れると、まず甘かった。

噛んだあとで、酸味が広がった。

皮が少しだけ歯に残る。

「……トマト?」

玲が頷く。

「甘い種類なの」

澪は、切られる前の実を見た。

いつも食べているものより、小さくて丸い。

「果物みたい」

店の人は澪の顔を見て、満足そうに笑った。

玲が何か伝えると、今度は台の端に置かれた別の籠を指した。

*

玲は二つの実を手に取り、一つを澪へ渡した。

「こっちも嗅いでみて」

掌に乗せると、思ったより温かかった。

澪はへたの近くへ鼻を寄せた。

青い匂いがする。

玲が持っていた方も受け取る。

そちらには、さっき口にした甘さを思い出す匂いがあった。

「こっち、さっきの?」

「そう。お昼はどっちがいい?」

「こっち」

澪が甘い方を少し持ち上げると、玲は店の人へ頷いた。

いくつか選んで、袋へ入れてもらう。

「ママは、いつもこっち?」

「一人のときは、もう少し酸っぱい方」

「今日は?」

「澪が気に入ったから、こっち」

澪は台の上の二つの籠を見た。

「パパは?」

「パパはどっちも食べる」

「聞こえてるぞ」

少し離れたところから、奏人の声がした。

振り返ると、香辛料の店の前にいた。

片手に、小さな包みを持っている。

「何買ったの?」

「まだ買ってない。匂いを見てた」

澪が近づくと、奏人は包みを少し開いた。

乾いた、温かい匂いがした。

鼻を近づけすぎて、澪は顔を引いた。

奏人が笑う。

「強いだろ」

「うん。でも、知ってる」

もう一度、今度は少し離れて嗅ぐ。

「何だったかな」

名前より先に、結菜の家の台所が浮かんだ。

鍋の蓋を開けたときの湯気。

けれど、この匂いだけではなかった気がする。

「結菜なら分かるかも」

「名前、控えておこうか」

奏人が言った。

澪は頷き、今度こそ端末を出した。

店の人に確かめてから、包みの表示を撮る。

写真の下へ、短く書いた。

《これ、何に使ったっけ》

少し考え、付け足す。

《今、市場にいる》

送ると、玲が隣から画面をのぞいた。

「結菜ちゃん、忙しくなりそうね」

*

買い物の途中で、玲は何度か呼び止められた。

パンの店では、薄いものを三枚頼んだあとで、もう一枚増やした。

チーズの店では、いつも買うものの置き場所が変わっていて、店の人に教えてもらっていた。

澪はその後ろについて歩く。

玲は迷わず曲がったり、立ち止まったりする。

この道を何度も通っているのだと思った。

「ママ、いつもここで買うの?」

「時間があるときはね」

「忙しいときは?」

「拠点で食べたり、帰りに何か買ったり」

玲はパンの包みを袋の上へ置いた。

「ここへ来ると、買う予定じゃなかったものも増えるから」

「今日も?」

「今日も」

袋の口から、香草の葉が出ていた。

奏人の手にも、さっきの小さな包みがある。

澪は笑った。

出口に近づくと、魚の匂いがした。

その先では石畳に水を撒いていて、日なたに出た途端、温まった石の匂いも戻ってきた。

海で結菜へ送った言葉を思い出す。

今日は、まだ増える。

端末が短く震えた。

《この前のスープ。ほかのも混ぜた》

結菜からだった。

澪は奏人の袋を見る。

《パパが買った》

《じゃあ帰ったら使おう》

澪は画面を見ながら頷いた。

玲に呼ばれ、端末をしまう。

今度は、坂を上る道だった。

*

宿へ戻ると、室内はひんやりしていた。

澪は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。

玲が買ったものを台所へ運ぶ間に、奏人と絵のケースを開ける。

取り出した絵を見ていると、玲が手を拭きながら戻ってきた。

「ここはどう?」

食卓から見える、窓の横の壁だった。

直射日光の届かない位置に奏人が整え、澪は少し離れて見た。

「うん」

玲も隣に立つ。

「食べながらも見られるね」

そのまま二人で少し眺めてから、玲が澪の肩へ軽く触れた。

「じゃあ、お昼にしよう。手、洗ってきて」

*

昼食は、小さな庭のテーブルに並べた。

薄いパン。

切ったトマト。

白いチーズと、焼いた野菜。

玲が香草をちぎり、油と混ぜて上から掛けると、澪は顔を近づけた。

「これ、さっきの店の匂い」

「オレガノ。少し強い?」

「ううん」

パンに野菜を乗せて食べる。

温かいところと、チーズの冷たいところが一緒になった。

トマトを噛むと汁が出て、澪は慌てて皿の上へ手を戻した。

玲も同じようにパンを折っていた。

奏人は一口食べてから、皿に残った油へパンの端をつけた。

澪も真似をする。

香草の匂いが、さっきよりよく分かった。

「おいしい」

「よかった」

玲はもう一切れ、野菜を取った。

庭の壁の向こうから、人の話し声が聞こえた。

言葉は分からない。

ときどき笑い声になり、それから遠ざかった。

「ママ、一人のときもここで食べる?」

「涼しい日はね。暑い日は中」

「今日は涼しい?」

「まだ大丈夫。もう少ししたら、ここまで日が来る」

玲がテーブルの端を指した。

石の床に、明るい四角が落ちていた。

澪は椅子の脚の影と、その四角の間を見た。

食べ終わるまでには、届かない気がした。

*

「帰るときも、ここのパン買えるかな」

澪が言った。

「朝なら開いてると思う」

玲は答えてから、奏人を見た。

「出る時間、何時だった?」

「まだ余裕はある。前日に確認しよう」

「もう帰りの話?」

玲が笑う。

「澪が始めたんだろ」

奏人に言われ、澪も笑った。

それから、少しだけ間が空いた。

「ママは、一緒には帰れないんだよね」

玲が澪を見る。

「うん。私はもう少し、こっちに残る予定」

「そっか」

澪はパンの端をちぎった。

分かっていた。

けれど三人で食べていると、帰るときもこのままのような気がしていた。

「日が決まったら、教えて」

「もちろん」

「決まってからでいいから」

玲は頷いた。

「ちゃんと伝える」

澪はちぎったパンを食べた。

皿には、トマトがもう一つ残っている。

玲が手を伸ばしかけて、澪の顔を見た。

「食べる?」

「半分」

玲はそれを二つに切り、片方を澪の皿へ置いた。

もう片方は、自分で食べた。

*

食器を運び終えた頃、玲の端末が鳴った。

玲は手を拭いて画面を見た。

短く返事を入力し、テーブルへ置く。

「仕事?」

「明日の予定の確認」

「明日は行くの?」

「午前中、拠点には顔を出すつもり」

澪は玲の隣へ座った。

「遺構も近い?」

「場所によるけど、車で行けるよ」

「ママが調べてるところも?」

玲は頷いた。

澪は市場での玲を思い出した。

パンの店へ迷わず入ったこと。

知らない言葉で呼び止められ、振り向いた顔。

宿へ帰る道で、日陰のある側へ自然に渡ったこと。

通信で話している間にも、玲はその前とあとに、こうしてどこかを歩いていた。

「私も、見に行きたい」

玲は少し姿勢を変えた。

「遺構?」

「うん。ママがいつも見てるところ」

「全部は回れないよ」

「見られるところでいい」

奏人が、拭いた皿を棚へ戻して振り返る。

「歩く方は大丈夫か。今日も結構歩いたぞ」

澪は足を少し伸ばした。

疲れていないわけではなかった。

でも、昨日の眠さとは違う。

「今日は休む。明日なら」

玲が笑った。

「じゃあ、入れる場所を確認してみるね」

端末を手に取り、予定を開く。

澪は横からのぞきかけて、待った。

玲がいくつか確かめ、連絡を送る。

「暑くなる前に出よう。帽子と、水と」

「歩ける靴」

奏人が続けた。

「持ってきたよ」

「それなら大丈夫」

玲は端末を置いた。

「明日は私が案内する」

澪は頷いた。

市場で玲について歩いた道より、ずっと先まで行ける気がした。

*

午後の部屋で、澪は端末に残った写真を見た。

海。

海を背に並ぶ玲と奏人。

香辛料の包み。

市場の写真は、それだけだった。

果物も、パンも、撮っていなかった。

けれど、赤い実を持った掌の温かさは覚えている。

試食の汁が甘かったことも、鼻を近づけすぎたときに奏人が笑ったことも。

結菜とのトークを開いた。

《甘いトマト食べた。チーズとパンに乗せた》

すぐには返事が来なかった。

日本はもう夜だった。

澪は続けて書いた。

《市場の匂い、いっぱいあって書ききれない》

送ってから、昼食の写真も撮っていなかったと気づいた。

少し残念だった。

明日からは全部撮ろうかと思い、たぶん無理だと思った。

《明日はママに遺構を案内してもらう》

三つ目を送ったところで、結菜から返信が来た。

《いいね。歩くの?》

《うん。帽子と靴と水って》

《水は忘れないでね》

《二人にも言われた》

《三人目》

澪は笑った。

少しして、もう一つ届く。

《トマトの話、帰ったら詳しく》

澪は今日の甘さを思い出しながら、《うん》と返した。

廊下から玲の声がした。

「澪、明日の靴、どこに入ってる?」

「鞄の下」

「これ?」

澪は端末を置き、部屋を出た。

玲が靴を一足、手に持っている。

その隣で奏人が、自分の靴の留め具を確かめていた。

澪も鞄から靴下を出した。

玄関に三人分の靴が並ぶと、明日出かけることが、少し本当になった。

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