ママの歩く道
昨夜、玄関にそろえておいた靴へ、澪は足を入れた。
足首の留め具を締め、立ち上がる。
昨日履いていた靴より、少しだけ足首がしっかりしている気がした。
「きつくない?」
奏人が聞いた。
「大丈夫」
「水は?」
澪は鞄の脇を叩いた。
「入ってる」
「帽子」
今度は頭を指した。
奏人は満足そうに頷いた。
台所から玲が出てきた。
今日は薄手の長袖に、動きやすそうなパンツを合わせていた。袖口を整えながら、肩へ鞄を掛ける。
市場でトマトを選んでいた昨日とは、少し違って見えた。
「準備できた?」
「うん」
澪は立ち上がったまま、食卓の方を振り返った。
窓の横には、昨日飾った絵がある。
玲が扉を開けると、朝の光が玄関に差し込んできた。
*
車は海沿いの道を進んだ。
低い壁の切れ目から、水面が見えたり隠れたりする。
澪は窓へ顔を向けていた。
「ママ、いつもこの道?」
「拠点へ行くときはね」
玲は窓の向こうを指した。
「ほら、あの角。夕方は向こうの海がよく見えるの」
澪が振り返る間に、建物の間を青い海が通り過ぎた。
「帰りも通る?」
「通るよ」
「じゃあ、帰りに見る」
玲が微笑んだ。
やがて道は海から離れた。
家の間隔が広がり、岩肌が近くなる。斜面の木々の向こうには、谷の影が見え始めた。
曲がり角をいくつか過ぎると、低い建物と車の停まった広場が現れた。
玲が鞄を持ち直す。
「着いたよ」
*
車を降りると、海辺とは違う匂いがした。
乾いた土と、木々の葉の匂い。
建物の入口へ向かう途中、道具を載せた台車が横を通った。
玲が押している人に声をかける。
相手は足を止め、端末を少し持ち上げた。
「北側の分、戻してあります」
「ありがとう。午後の確認は予定どおり?」
「はい」
玲が頷くと、台車はまた動き出した。
澪はその背中を見送った。
ここでは、皆が玲を知っている。
昨日の市場でもそうだった。
澪には知らない人でも、玲とは短い言葉だけで話が通じていた。
入口で見学者の確認を済ませると、玲は二人を明るい作業室へ案内した。
窓際に机が並び、壁には遺構の写真や図面が映っている。
中央の台には、浅い箱がいくつも置かれていた。
澪はその一つに目を留めた。
小さな石の破片だった。
一つずつ間を空けて並べられ、脇に番号がある。
「これも、遺構の?」
「うん。今、確認しているもの」
玲は台の端へ手を置いた。
「ここでは触らずに見てね」
澪は頷き、少し身をかがめた。
似た色の破片なのに、割れた面はそれぞれ違っていた。
*
「玲」
奥の机から、女性が顔を上げた。
玲が手を上げる。
「おはよう、サラ」
サラは手元の資料を置き、こちらへ歩いてきた。
玲が二人を紹介すると、サラは澪へ視線を合わせた。
「ようこそ。リュキアはどう?」
「海が、きれいでした」
言ってから、昨日の市場も思い浮かんだ。
「あと、トマトが甘かったです」
サラが笑った。
「もう市場へ行ったのね」
「昨日、三人で」
玲が答えた。
「今日は少し案内してくる。午前の確認だけ済ませたら」
「ええ。見学路の更新、テオが持っているわ」
呼ばれた名前に、窓際の男性が顔を上げた。
小さな機器を台へ置き、端末を持ってくる。
「今朝の分です」
テオが表示した図を、玲と奏人がのぞいた。
「この区間は昨日と同じです。こちらの枝道は作業中なので入れません」
指が図面の一角で止まった。
「第七支谷の見学路は通れます。主回廊から円環側までです。その先は制限区域なので、まだ入れません」
「分かった。ありがとう」
玲が図を受け取る。
テオは机の下から、小さなケースを取り出した。
「それと、見学用の撮影端末も用意しています。今日はお使いになりますか?」
「撮影なら、うちの機材も持ってきているんだけど」
奏人が言う。
「もちろん使えます。ただ、第七支谷ではこちらの端末と同期していただいています。撮影位置や時刻、それに環境の記録をまとめて管理できるので」
「なるほど。ウェアラブルもつなげられる?」
「ええ。見学区域での撮影なら問題ありません。終了後、個人で共有できる記録をお渡しします」
澪が顔を上げた。
「じゃあ、友達にも見せられる?」
「公開できる範囲の写真ならね」
テオは笑い、ケースを奏人へ渡した。
「操作は簡単です。必要なら、イデアとも連携できますよ」
「ありがとう。借りていくよ」
澪も横から見た。
道がいくつも分かれていた。
線に囲まれた場所には、屋根のあるところと、ないところが色を変えて示されている。
「これ、全部つながってるの?」
「通れなくなっているところもあるけどね」
テオが答えた。
「今日は玲さんについていけば大丈夫」
「途中で私が止まるかもしれないけど」
玲が言う。
奏人が小さく笑った。
「それは昔からだな」
「置いていったことはないでしょう」
「待ったことならある」
サラまで笑った。
澪は玲を見た。
仕事場でも、ママはママだった。
*
出発前の確認は、少しだけ続いた。
玲はサラの机の横に立ち、写真を二枚見比べていた。
「これは同じ面?」
「ええ。撮影した時刻が違うの」
「こちらの記録も付けておいてもらえる?」
「分かった」
すぐに答えが出ることもあれば、二人で黙って見つめる時間もある。
澪は少し離れたところから、その横顔を見ていた。
通信の途中で玲が呼ばれると、いつも画面の外を向いていた。
その先には、こういう机があって、サラたちがいたのだ。
「どうした?」
隣で奏人が聞いた。
「ママ、いつもあんな感じ?」
「気になるものを見てるときはな」
澪はもう一度玲を見た。
自分の絵を見てくれたときにも、玲は少し黙っていた。
こちらを急がせず、目を動かしながら。
やがて玲が顔を上げた。
「お待たせ。行こうか」
*
拠点からさらに車で移動し、そこからは歩いた。
道の脇には低い石積みが続いている。
玲は途中で足を止め、石の色が変わっている部分を示した。
「ここは、あとから補ってあるの」
澪が見ると、同じような石でも、角の丸まり方が違っていた。
「全部、昔のままじゃないんだ」
「崩れないように支えたり、歩けるように直したりしているからね」
玲はその先の、地面に残った低い壁を指した。
「こちらは、建物の下の部分」
澪は壁に囲まれた地面を見た。
部屋だったのだと言われると、急に広さが分かった気がした。
けれど、入口はよく分からない。
「どこから入ったの?」
玲が回り込み、一か所だけ途切れた場所を示した。
澪もその前に立つ。
さっきまではただの壁の切れ目だったところが、入口になった。
奏人は石積みの横から、奥を見ていた。
「床は、もう少し上だったのか」
「そう。今見えているのは、その下」
澪は自分の足元を見た。
何もないように見える場所にも、まだ続きがある。
*
道が緩く上り始めた。
澪は石の出ているところを避け、玲のあとを歩いた。
玲は迷わず足を置いていく。小さな段差でも、歩く速さはほとんど変わらなかった。
澪は一歩の幅を変え、少し遅れて同じ段差を越えた。
――ママの歩く速さも覚えてきて。
結菜の言葉を思い出した。
玲はもう、次の曲がり角に近づいている。
しばらくして、玲が振り返った。
「休む?」
「まだ大丈夫」
「無理しなくていいよ」
「してないよ」
後ろから奏人が笑った。
「ネクサスでも動いてるからな」
玲は澪の足元を見て、頷いた。
再び歩き始めると、今度は二人の間があまり広がらなかった。
澪が段差を越えるまで、玲も次の一歩を少し待っている。
「じゃあ、次の日陰で水だけ飲もう」
「うん」
木陰へ入ると、首の後ろを風が通った。
澪は帽子を少し持ち上げ、水を飲む。
道の先で、谷が折れていた。
「第七支谷は、この向こう」
玲が言った。
澪は容器の蓋を閉めた。
*
初めに見えたのは、壁だった。
斜面に沿って、淡い色の石が長く続いている。
近づくと、その間に通路があった。
人が並んで歩けるほどの幅があり、奥には日陰が落ちている。
玲は見学路を示す小さな表示を確認し、二人を振り返った。
「ここから入るよ」
澪は頷いた。
入口を通ると、靴音が変わった。
それまで足の下で鳴っていた音が、少し前からも返ってくる。
澪は一歩進み、もう一歩進んだ。
右側には壁がある。
左側には細長い開口部があり、向こうの明るい場所が見えた。
通路の先へ出ると、頭上が急に開いた。
空だった。
四方を石に囲まれた小さな中庭に、草が生えている。
その向こうには、また影のある回廊が続いていた。
「外に出た?」
「ここは空いてるの」
玲も上を見る。
「さっきの図で、色が違っていたところ」
澪は振り返った。
歩いてきた通路が、暗い枠のように見えた。
入ったときには、そこまで暗いと思わなかったのに。
「ここ、何をするところだったの?」
「まだ、はっきりとは分からないの」
玲は中庭から続く道へ目を向けた。
「部屋や道のつながりは調べているんだけど、どう使っていたのかは、確かめているところ」
澪は壁の石へ目を向けた。
文字らしいものは見当たらなかった。
少し離れたところに、今の見学路を示す小さな印があるだけだった。
*
中庭の端で、微かな音がした。
澪は顔を向けた。
水のようにも、葉が触れ合った音のようにも聞こえた。
細い開口部がある。
玲は少し先で、通路の幅を確かめるように立ち止まっていた。
奏人もその隣で、壁の上の方を見ている。
澪は二人のあとをゆっくり歩いた。
帰ったら、今日のことを結菜に話そう。
昨日、市場で見たものも、まだ全部は話せていない。
海の写真は送ったけれど、石の通路ばかり写しても、結菜は面白いだろうか。
お土産も、何がいいかな。
市場で見た、香りのする小さな袋。
あれなら喜ぶかもしれない。
でも、せっかくリュキアに来たのだから、もっと珍しいものを探してみたい。
結菜なら、料理に使えるものの方がいいだろうか。
そんなことを考えながら、澪は何となく左手の壁へ視線を向けた。
淡い灰色の石が並んでいる。
浅い筋がいくつか走り、ところどころに小さな影ができていた。
ふと、その一部が手前にあるように見えた。
葉っぱだった。
薄い葉が一枚、石壁から少しだけ浮いている。
「……あれ?」
澪が目を凝らした途端、葉っぱの形は石の筋に戻った。
ただの曲がった筋だった。
澪は瞬きをした。
もう一度、ぼんやりと同じあたりを眺める。
けれど、さっきのようにはならなかった。
「……変なの」
「どうした?」
奏人が振り返った。
「今ね、葉っぱが浮いて見えた」
「葉っぱ?」
玲も戻ってきた。
「うん。壁から、ちょっとこっちにあるみたいに」
澪は石に触れないところで指を止めた。
「ここ。この曲がった線」
玲は顔を近づけた。
「……葉っぱには見えるね」
「でしょ。でも、さっきはもっと、こう……前にあったの」
澪は手のひらを少し壁から離してみせた。
玲は澪の示した位置から石を見る。
「私は、そこまでは分からないかな」
「もう見えないんだよね」
奏人も隣へ来た。
「さっきから何か考え事してたな」
「うん。結菜のお土産、何にしようかなって」
「それで壁を見てたのか?」
「見てたっていうか……何となく見てたら、急に浮いて見えたの」
奏人は指された石を眺めた。
「へえ。面白いな」
少し顔の位置を変えてみる。
「……葉っぱには見えるけどな」
「そうなの。今は普通」
澪も同じところへ目を戻した。
石の線は、さっきから何も変わっていない。
*
「……あ、こっちにもある」
澪が隣の石を指した。
玲が振り返る。
「えっ、もう?」
「うん。こっちは二枚あるみたい」
澪は半歩横へ動いた。
「ここから見るとね」
玲が隣に立つ。

「……どこ?」
「この細い線。ここで曲がってるでしょ?」
澪は空中で形をなぞった。
「こっちが一枚で、その後ろにもあるみたい」
玲は少し膝を曲げた。
「……ああ、この辺り?」
「そう!」
奏人も後ろからのぞいた。
「俺にはまだ分からないなw」
「パパ、こっちから見て」
「ここ?」
「もうちょっと右」
奏人が半歩動いた。
「……ああ、なるほど」
澪は満足そうに頷いた。
「でしょ?w」
ところが、今度は澪が少し首を傾けた。
「あれ。こっちから見ると丸い」
「丸い?」
玲が聞いた。
「うん。さっきは葉っぱ二枚だったのに」
澪は元の位置へ戻り、また横へ動いた。
「ほら。ここだと一つの輪みたい」
玲も同じように動いた。
「……本当ね。重なっていた線が、一つにつながって見える」
奏人は二人の横から壁を眺めた。
「同じ石なのに、見る位置だけでずいぶん違うな」
「うん。面白いねw」
澪は笑った。
そして、視線を隣の壁へ移した。
「……あ」
奏人が澪を見る。
「今度は何だ?」
「あそこも、何かある」
「……またかw」
玲が笑った。
「ちょっと待って、澪。まだこっちを見ているから」
「うんw」
澪は二人が見終わるのを待った。
*
次に見つけたのは、少し離れた石の細い筋だった。
澪には、それが枝の先のように見えた。
ただ、玲と奏人にはなかなか分からなかった。
「ここが枝でしょ?」
「うん」
「それで、この先がちょっと分かれてる」
奏人が首を傾けた。
「……どの線だ?」
「こっち。あ、違う。パパが見てるのは、その隣」
「……これか?」
「そうそうw」
奏人はしばらく黙って石を見つめた。
「……ああ、やっと分かった」
澪は不思議そうに父親を見る。
「そんなに見つけにくい?」
「いや、澪が見つけるのが早いんじゃないか?w」
玲も笑った。
「私も、言われなかったら気づかなかったかもしれないわ」
澪は石壁を振り返った。
言われてみれば、最初から全部が見えていたわけではない。
けれど、一つ見つけると、その隣にも何かがあるように思えてくる。
少し離れた石。
壁の継ぎ目。
日陰の端。
視線を動かしているうちに、また一つ、気になる線が見つかった。
「あ、ママ。こっちも」
玲が笑いながら振り返った。
「今日は澪の方が案内役ねw」
*
奏人は、すっかり足を止めていた。
澪が教えてくれた枝のような筋を、少し離れて眺めている。
近くではただの細い傷に見えたのに、距離を取ると別の線とつながって見える。
「……なるほどなあ」
玲が振り返った。
「あなたまで夢中になってるのねw」
「いや、これは面白いよ」
奏人は一歩左へ動いた。
「同じところを見ているつもりでも、気になる形が変わるんだな」
「そうね。表面の凹凸もあるし、光の影響もあると思う」
「さっきの葉っぱは、まだ分からないけどな」
澪が言った。
「浮いて見えたやつ?」
「うん。もう一回見たいんだけど」
「同じことが起きるとは限らないか」
奏人は壁から視線を外した。
「……そうだ。イデア」
『はい、奏人さん』
「今日の見学、少し詳しく記録しておいてくれるか?」
『もちろんです。旅行記録に追加しますね』
「テオに借りた端末ともつなげられるか?」
奏人は鞄から小さなケースを取り出した。
『はい。財団の見学用記録端末を確認しました。接続できます』
「じゃあ、お願い。澪が見つけた場所も残しておきたい」
『撮影位置と時刻を関連づけて記録できます。現地での記録は財団側に同期され、共有可能なものを旅行記録にも保存します』
「それなら助かるな」
奏人はケースを脇に置き、鞄の別のポケットを開いた。
「せっかくだから、ウェアラブルでも撮っておこうか」
取り出したのは、細いフレームのウェアラブル眼鏡だった。
玲がのぞき込む。
「持ってきていたの?」
「うん。旅行用にね。玲の分もあるよ」
「準備がいいわね」
「昨日、澪が市場の写真をあまり撮れなかったって言ってただろ?」
澪が顔を上げた。
「……覚えてたんだw」
「そりゃあな」
奏人は眼鏡を玲へ渡した。
「今日は、あとで見返せるようにしておこう」
玲は頷いた。
「いいわね。澪がどこから見たかも残せるし」
澪も自分の眼鏡を取り出した。
「じゃあ、私も撮るね」
『三名のウェアラブル機器を、見学用記録端末と同期しますか?』
イデアが尋ねた。
「うん。お願い」
澪が答えた。
『同期しました。見学区域の記録を共有します。公開可能な写真は、あとで皆さんの旅行記録にも送れます』
「これで、ママも見られる?」
『はい。玲さんは調査側の記録としても確認できます』
玲が頷いた。
「じゃあ、気になったところを残しておこうか」
奏人は眼鏡を掛けた。
視界の端に小さな記録表示が現れる。
玲も同じように眼鏡を掛け、壁を見た。
澪は二人の顔を交互に眺めた。
「……パパ」
「ん?」
「……眼鏡掛けると、ちょっと怪しいねw」
奏人が澪を見た。
「……そこか?w」
玲が吹き出した。
「ふふっ。確かに少し雰囲気が変わるわね」
「玲までかw」
澪は笑いながら、自分も眼鏡を掛けた。
「じゃあ、これ撮っておこう」
『記録を開始します』
眼鏡の端に、控えめな表示が灯った。
*
「まず、さっきの葉っぱ」
澪は最初の壁へ戻った。
「ここから見たんだよね」
『現在の撮影位置を記録しました』
イデアの声がした。
澪は壁の筋を撮った。
「でも、浮いて見えたときは、こんなにちゃんと見てなかった」
奏人が頷いた。
「それも残しておこう。何となく見ていたときだった、と」
『澪さんの説明として記録しました』
玲は少し離れた位置から、同じ石を撮影した。
「私のところからは、葉っぱには見えるけれど、少し形が違うわね」
「見せて」
玲が撮った映像が、澪の眼鏡にも表示された。
「……あ、本当だ」
奏人も自分の位置から撮ってみる。
「俺のはどうだ?」
「パパのは、ただの曲がった線みたいw」
「そうだな。俺にもそう見えてるw」
三人で笑った。
澪は改めて壁を見上げた。
石は動いていない。
三人の映像には、それぞれ違う角度から見た石の筋が残っていた。
見る位置によって、葉っぱに似ていたり、ただの曲がった線に見えたりする。
けれど、澪が最初に見た、石から浮き上がる葉っぱの姿は、どの画面にもなかった。
「……変なの」
小さくつぶやくと、玲が隣へ来た。
「でも、葉っぱに見えた線は残ったね」
「うん」
「それだけでも、あとで見返したら面白いと思うわ」
澪は頷いた。
*
撮影を始めてから、三人の歩みはさらにゆっくりになった。
というより、ほとんど進まなくなっていた。
「あ、こっちにも」
澪が言う。
「ちょっと待ってくれ。今、こっちを撮ってるんだw」
奏人が答える。
玲は少し離れた場所から二人を眺めた。
「ふふっ。今日は先へ進めるかしら」
「進むよw」
澪が笑った。
「……たぶん」
奏人が付け足した。
今度は玲まで笑い出した。
やがて、雲が日差しを遮った。
壁の上の方から影が薄くなり、さっきまで見えていた模様の輪郭が曖昧になる。
「あれ、消えちゃった」
澪が言った。
「光が変わったんだな」
奏人が空を見上げた。
玲も同じところを見る。
「この辺りは時間によって影の出方が変わるの。だから記録も、撮影条件を残すようにしているわ」
「じゃあ、今のも時間が分かる?」
澪がイデアに尋ねた。
『はい。撮影時刻も記録しています』
「よかった」
澪は少し安心した。
せっかく見つけたのに、あとで分からなくなったら残念だったからだ。
しばらくすると日差しが戻ってきた。
壁の上から明るくなり、細い影が再び現れる。
「ほら」
今度は玲が先に気づいた。
「少し出てきたね」
澪は頷いた。
同じ石なのに、さっきとは違うものを見ているようだった。
*
「ママ」
「うん?」
「遺構って、こんなに面白いところなの?」
玲が澪を見た。
澪は少し笑った。
「ちょっと退屈なのかと思ってた」
後ろで奏人が息を漏らした。
玲も笑う。
「そう思ってたの?」
「だって、石がいっぱいあるところだと思ってたから」
「石は、いっぱいあるな」
奏人が言った。
「うん。でも、ただの石じゃないんだね」
玲は少しだけ考えた。
「そうね。何に使われていたのか分かるところもあれば、まだ分からないところもあるの」
「じゃあ、ママも分からないものを見てるんだ」
「毎日ね」
澪は周囲を見回した。
長い壁。
細い開口部。
何も置かれていない中庭。
昨日、市場で見た玲は、買うものをよく知っていた。
店の人とも、迷わず話していた。
でも、ここでは分からないものを探している。
そのことが、少し不思議だった。
そして、ちょっと面白かった。
*
「……あ、待って」
先へ歩きかけた玲が足を止めた。
澪は二つの石を交互に見ていた。
一つには丸い筋がある。
その隣の石には、長く伸びた線が走っていた。
「こっちのも、一緒に見るとね」
澪は少し離れて、身体を傾けた。
「葉っぱが、水に流れてるみたい」
玲が戻ってくる。
「この長い筋が、水?」
「うん。グリーンオアシスの水路みたいな。葉っぱが浮いてるときの」
玲は少し腰をかがめ、澪の示した方から見た。
「……ああ、なるほど」
奏人も近づいてきた。
「どれだ?」
「パパ、ここ」
澪は眼鏡に表示された撮影位置を示した。
奏人がそこへ立つ。
「……ああ。今度はすぐ分かったw」
「慣れてきたんじゃない?w」
澪が笑った。
玲は二つの石をもう一度見比べた。
「私は、枝にも見えるかな」
「枝?」
「葉っぱが、まだここにつながっているような」
澪は線の端を見た。
言われると、そうも見えた。
流れていた葉が、枝の先で揺れている。
「……ほんとだ」
澪は玲の方を見た。
「ママも見つけたねw」
玲が笑った。
「澪が教えてくれたからね」
奏人は少し離れて、二つの石を見比べていた。
「どこまでが刻まれた模様で、どこからが石にできた自然の筋なんだろうな」
「それも、まだ確かめているところ」
玲が答えた。
「こうして見ていると、いろいろな形に見えるものね」
「うん」
澪は石の継ぎ目へ目を向けた。
線がそこで途切れているのか。
それとも向こうへ続いているのか。
少し離れると、また違って見えそうだった。
「……イデア」
『はい、澪さん』
「今のも、撮れてる?」
『はい。三名の撮影記録を保存しました』
「ありがとう」
澪は微笑んだ。
あとで結菜にも見せよう。
きっと、何か言うと思う。
どんなふうに見えるのか、聞いてみたい。
*
「もうちょっと、見ててもいい?」
澪が尋ねた。
玲は空を見上げた。
太陽はまだ高いところにある。
「いいよ。ただし、少し休憩してからね」
「うん」
三人は日陰になった低い場所へ移動した。
澪は帽子を外し、水を飲む。
奏人は眼鏡に表示された写真を見返していた。
「……パパ」
「ん?」
「まだ見てるの?w」
「ああ。これ、見返してみるとなかなか面白いな」
玲も画面をのぞいた。
「あなた、澪より夢中になってない?w」
「そうかもしれないなw」
澪が笑った。
『本日の記録には、通常の旅行写真も含まれています』
イデアが伝えた。
「そうだ。イデア、ママと一緒の写真も撮っておいてね」
『もちろんです』
奏人が眼鏡を外した。
「じゃあ、三人でも撮っておくか」
「うん!」
奏人はテオから借りた端末を取り出した。
「これでも撮れるんだよな?」
『はい。カメラを使えます。三名が入る位置を案内します』
「便利ね」
玲が笑った。
三人は中庭へ戻った。
端末を見学路脇の平らな台に置くと、カメラの向きが小さく変わった。
『その位置で大丈夫です』
石壁を背景に並ぶ。
奏人の隣に澪が立ち、玲がその肩へ軽く手を置いた。
『撮影します』
合図に合わせて、澪が笑った。
『撮影しました』
端末から共有された写真には、三人の後ろに淡い石壁が写っていた。
さっきの模様は、小さくてほとんど分からない。
でも、三人がどこにいたのかは、よく分かった。
「……いいね」
澪が言った。
玲も頷いた。
「うん。いい写真」
*
休憩を終え、再び回廊へ戻った。
玲が先に歩き、澪がその後ろをついていく。
奏人は少し遅れて、眼鏡に表示された撮影記録を見返していた。
澪は途中で足を止めた。
「ママ、今度はこっちから見て」
玲が振り返る。
「どこ?」
澪は壁の手前へ立った。
「ここに来るとね、さっきの線がまた違って見えるの」
玲が澪の隣へ立った。
二人は同じ方を向いた。
「……ああ。本当ね」
玲が言った。
澪は少し嬉しくなった。
その先にも、気になる石があった。
見学路はまだ続いている。
ここへ来るまでは、玲のあとを歩いていた。
足を置く場所を見て、曲がり角で追いついて。
今は、玲が自分の隣にいる。
澪が見つけた石を、同じ高さから見ている。
「ママ、こっちにもあるよ」
玲が少しだけ位置を変えた。
「ほんと。よく見つけるわね」
「だって、見えるんだもんw」
玲が笑った。
「そうね。私も、もっとよく見てみようかな」
少し離れたところで、奏人が声を上げた。
「澪、玲。こっちも撮っておこうか」
「はーい」
澪は振り返った。
回廊の向こうから、また小さな音が届いた。
葉が触れ合うような、水が流れるような音。
澪は一度だけその方を見た。
それから、隣に立つ玲へ笑いかけた。
「ママ、行こう」
「うん」
今度は澪が先に歩き出した。
玲はその隣へ並んだ。
二人の少し後ろを、奏人が楽しそうについてきた。
古い石の通路には、三人分の靴音が重なっていた。


