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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 29|三人分の夕食

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目次

三人分の夕食

空港を出てから、澪は何度か窓の外を見た。

乾いた道路。

低い建物。

白っぽい石の壁。

遠くに見える海。

車が進むたびに、空港で感じた匂いとは少しずつ違うものが混ざってくる。

土。

草。

熱を持った石。

時々、潮の気配。

玲は助手席から何度か振り返った。

「眠い?」

「少し」

「お腹は?」

「少し」

「どっちも少しね」

奏人が運転席から言う。

「今は質問を増やさない方がいいんじゃないか」

「二か月ぶりなのよ」

「二か月分を一時間で聞く気か」

玲は少し考えた。

「……三時間くらい?」

「増えた」

澪は後部座席で笑った。

笑っただけで、少し眠くなった。

それを見た玲が、今度は何も聞かなかった。

*

宿泊棟は、海から少し離れた高台にあった。

大きなホテルではない。

調査員や長期滞在者が使う、小さな住居をいくつかまとめたような建物だった。

玲が使っている部屋には、簡単な台所と食卓、それから寝室が二つある。

玄関を入ると、澪は最初に靴を脱ごうとして止まった。

玲が笑う。

「そのままでいいのよ」

「まだ慣れない」

「私も最初やった」

奏人が荷物を運びながら言う。

「日本人が三人いると、玄関だけ日本式にしたくなるな」

「勝手に変えないでね」

黒い輸送ケースは、窓から離れた壁際へ置いた。

表示は緑のままだった。

澪は一度、その表面へ手を置く。

「今日は開けないんだよね」

玲が聞いた。

「うん」

「本当に?」

「今日はいい」

自分で答えてから、澪は少し不思議に思った。

日本を出る前は、着いたらすぐにでも見せたいと思っていた。

けれど今は、ケースがそこにあるだけでよかった。

明日もある。

玲もいる。

急がなくていい。

玲は窓の外を見た。

「まだ明るいけど、海、行ってみる?」

澪も窓を見る。

空は青い。

遠くには、細い海の光も見える。

行きたいと思った。

けれど立ち上がろうとすると、足が重かった。

「……明日がいい」

玲はすぐに頷いた。

「分かった」

「いいの?」

「海は逃げないから」

奏人が言う。

「玲は逃げるかもしれないけどな」

「逃げないわよ」

「仕事の連絡が来たら行くだろ」

玲は少しだけ言葉に詰まった。

「……今日は行かない」

澪は玲を見る。

玲は自分の仕事端末を鞄から出し、食卓の端へ置いた。

画面にはいくつか通知が出ていた。

けれど玲は確認せず、端末を伏せた。

「今日は、こっち」

そう言って台所へ向かった。

*

移動で疲れている二人に合わせて、夕食はいつもより早い時間にした。

窓の外には、まだ午後の明るさが残っている。

夕食は、玲が途中まで作っておいたものだった。

豆と野菜の煮込み。

少し硬いパン。

オリーブを使った小さな副菜。

それから、冷たい水。

食卓に三人分の器が並ぶ。

澪は椅子へ座りながら、その数を見た。

三つ。

それだけなのに、少し変な感じがする。

日本では、玲が通信で食卓にいることは何度もあった。

投影なら、同じ場所に座っているように見せることもできた。

けれど、玲の前にも本当に器がある。

玲がパンをちぎる。

スプーンが器へ触れる。

水を飲めば、グラスの中身が減る。

「味、大丈夫?」

玲が聞いた。

澪は煮込みを一口食べる。

豆は柔らかい。

トマトに似た酸味。

知らない香草。

「おいしい」

「よかった」

「ママが作ったの?」

「半分」

「半分?」

「豆は煮た。味付けは途中でマリクに聞いた」

「誰?」

「ここの調理担当」

奏人が一口食べる。

「つまり、現地監修付きか」

「そういうこと」

玲は少し得意そうだった。

澪はもう一口食べた。

日本で食べる煮込みとは違う。

でも、乗り継ぎの空港で食べたものほど遠くもない。

知らない味なのに、落ち着く。

「ネクサスはどう?」

玲が聞いた。

「うん。楽しいよ」

「みんなとうまくいってる?」

「うん」

「新しいお友達はできた?」

「できたよ」

「どんな子?」

澪はパンをちぎった。

何から話せばいいのか分からない。

玲は待つ。

けれど、数秒でまた口を開いた。

「絵は? あの青いの以外にも描いた?」

「描いた」

「何を?」

「いろいろ」

「それから、アルバイトは――」

「玲」

奏人が止めた。

玲が奏人を見る。

「何?」

「食べさせろ」

「食べてるわよ」

「澪の手、止まってる」

玲が澪を見る。

澪の手には、ちぎりかけのパンがある。

「あ」

玲は少し気まずそうに笑った。

「……聞きすぎた?」

「ちょっと」

「ごめん」

「いいけど」

奏人が言う。

「一晩で全部聞こうとするな」

「分かってる」

玲は煮込みを一口食べた。

今度は何も聞かなかった。

食卓に、スプーンの音だけが少し続く。

澪はその静けさが嫌ではなかった。

通信のときは、黙ると何か話さなければいけない気がした。

回線の向こうにいる人が、そこにいるか確認するために。

今は違う。

玲は黙っていても目の前にいる。

奏人もいる。

三人とも同じ煮込みを食べている。

それだけで時間が進んでいた。

少しして、玲が言う。

「結菜ちゃん、元気?」

今度の声は、さっきよりゆっくりだった。

澪は頷く。

「元気。朝も起きて見送ってくれた」

「朝四時に?」

「通信で」

「すごいわね」

「起きて待っててくれた」

「優しいわね」

そこから澪は少しずつ話した。

結菜が香り袋を作ってくれたこと。

空港の匂いを報告する約束。

乗り継ぎで食べた知らない香草。

絵を運ぶのが少し怖かったこと。

玲は途中で質問せず、聞いていた。

時々、笑う。

時々、短く頷く。

澪が言葉を探して止まると、そのまま待った。

パンを一口食べてから、澪は言った。

「ネクサスにね、陽斗くんっているんだけど」

「うん」

「いつも楽しそうなの。陽斗くんがいると、誰かが笑ってる」

そう言いながら、澪も少し笑った。

「何を話してたか忘れても、笑ったのは覚えてる」

玲の口元が緩んだ。

「それは、会ってみたいわね」

「あと、真琴さん。困ったときに聞くと、一緒に考えてくれる」

「頼りになりそうね」

「うん。話してると、何からやればいいか分かってくる」

玲は頷いた。

澪は煮込みをすくう。

さっきは何から話せばいいのか分からなかったのに、一人の顔を思い浮かべると、その隣にいた人の顔も浮かんだ。

食べながら、少しずつ話した。

玲は今度は、次の質問を急がなかった。

話が途切れてから、パンへ手を伸ばす。

「グリーンオアシスのアルバイトも、続けてるのよね」

「うん」

「ランチ、人気なんでしょう? 予約もなかなか取れないんじゃない?」

「日によるけど、早く埋まることはあるよ」

「帰ったら、私も食べに行きたいな」

「じゃあ、先に予約しておいてね」

奏人が笑った。

「家族でも、そこは同じか」

「だって、席がないと座れないもの」

「それはそうね」

玲も笑い、残っていたパンをちぎった。

*

食事が半分ほど終わった頃、伏せていた玲の端末が一度だけ震えた。

玲の視線がそちらへ動く。

画面は下を向いたままなので、内容は見えない。

澪も端末を見る。

玲は数秒迷ったあと、手を伸ばさなかった。

「見なくていいの?」

澪が聞く。

「緊急なら、別の通知が来るから」

「仕事じゃないの?」

「仕事よ」

「じゃあいいの?」

玲は澪を見る。

「今日は、いいの」

奏人が水を飲む。

「珍しいな」

「何よ」

「いや、記録しておこうかと思って」

「しなくていい」

澪は笑った。

玲も笑う。

そのときだった。

澪の表情が止まった。

スプーンを持った手が、器の少し上で動かなくなる。

玲が先に気づいた。

「澪?」

澪は床の方を見た。

まだ何も動いていない。

でも、胸の奥というより、もっと下。

足の裏から少し離れたところに、低い何かが近づいてくるような感じがした。

「……くる」

奏人がすぐにグラスへ手を添えた。

玲も食卓の端を見る。

「地震?」

澪は小さく頷く。

「うん」

数秒。

何も起きない。

そのあと、テーブルの上の水がわずかに揺れた。

グラスの縁へ、細い波が触れる。

食器が一度だけ、小さく鳴った。

床の下を、軽い振動が通り過ぎる。

長くは続かなかった。

玲は天井を見る。

奏人は窓の外を見る。

澪はまだ床を見ている。

やがて、何も動かなくなった。

「……終わった」

澪が言った。

壁際の室内端末に、小さな表示が出る。

《微弱な地震動を検出しました》

その下に、

《建物設備に異常は確認されていません》

と続いた。

奏人がグラスから手を離す。

「小さいな」

「このくらいなら、たまにあるわ」

玲が言った。

「最近多い?」

「どうだろう。少し増えたって言う人もいるけど、記録を見ないと分からない」

玲はそう言ってから、澪を見た。

澪は普通にパンをちぎっていた。

「何?」

「ここでも、分かるのね」

澪は少し考えた。

「何が?」

「揺れる前」

「ああ」

澪はパンを煮込みへつける。

「なんとなく」

玲は一瞬だけ何かを言いかけた。

けれど、やめた。

「そっか」

それだけ言った。

奏人も何も足さなかった。

三人はそのまま食事へ戻った。

数分後には、地震の話は別の話に変わっていた。

*

食後、澪は結菜へ短いメッセージを送った。

《夕食食べた》

少し考えて、

《豆の煮込み。おいしかった》

と続ける。

さらに、

《さっき小さい地震あった》

と入力した。

結菜からすぐに返信が来た。

《大丈夫?》

《大丈夫。すぐ終わった》

《揺れる前に分かった?》

澪は少し止まった。

結菜は昔から知っている。

《うん》

《やっぱり》

《でも小さかった》

《ならよかった》

そのあと、

《匂いは?》

と来た。

澪は食卓を見る。

豆。

パン。

玲の服についた少しの土。

開けた窓から入る乾いた空気。

《家じゃないけど、家みたいな匂い》

送る。

少しして、

《分かりにくいです》

と返ってきた。

澪は笑った。

《でもそうなの》

《記録しておきます》

昨日から何度目か分からない返事だった。

*

風呂を終える頃には、身体の重さが一気に増していた。

玲が用意してくれた寝室には、小さな机とベッド、それから窓が一つある。

窓の外には、昼間とは違うリュキアの明かりが見えた。

遠くの道路。

低い建物。

その向こうは暗く、海がどこにあるのかは分からない。

澪はベッドへ座った。

鞄から白い香り袋を出す。

少しだけ開く。

タイム。

レモンバーム。

日本の家。

今日一日で、ずいぶん遠くまで来た。

それでも、隣の部屋には奏人と玲がいる。

廊下の向こうから、二人の声が聞こえた。

何を話しているのかまでは分からない。

奏人が何か言う。

玲が返す。

少し間があって、二人が小さく笑った。

澪は立ち上がり、寝室の扉へ行った。

閉める。

――少し考える。

もう一度開ける。

全部ではなく、手のひら一枚分くらい。

廊下の灯りが、細い線になって床へ入ってきた。

「澪?」

玲の声がする。

「なに?」

「扉、開けておくの?」

澪は少し考えた。

「うん」

「分かった」

それだけだった。

玲は閉めに来なかった。

奏人も何も言わなかった。

澪はベッドへ戻る。

布団をかける。

廊下の光が見える。

その向こうで、まだ二人の声がする。

通信なら、会話が終われば画面が暗くなる。

音も消える。

接続終了。

それで終わりだった。

でも今日は違う。

話していなくても、玲はいる。

奏人もいる。

同じ建物の中で、それぞれ別のことをしている。

澪は目を閉じた。

扉の向こうで、玲が何かを言った。

奏人が小さく笑った。

内容までは聞き取れなかった。

でも、それでよかった。

通信は、切れていない。

そもそも今日は、

つながなくてもよかった。

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