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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 27|まだ暗い朝

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目次

第27話 まだ暗い朝

目覚ましが鳴る少し前に、澪は目を覚ました。

部屋は暗かった。

窓の外にも、まだ朝の色はない。

庭の照明だけが、葉の裏側を薄く照らしている。

枕元の端末を見る。

午前四時十二分。

目覚ましが鳴るまで、あと三分だった。

澪は停止ボタンを押し、布団の中で一度だけ目を閉じた。

眠い。

けれど、もう一度眠れる気はしなかった。

ベッドを出る。

床が少し冷たい。

昨夜使った白い香り袋が、枕元に置かれていた。

澪は袋を持ち上げ、口がきちんと閉じていることを確かめる。

タイムとレモンバームの匂いは、もう部屋には残っていない。

袋の中へ戻り、静かに待っている。

澪はそれを鞄へ入れた。

廊下へ出ると、階下から小さな物音が聞こえた。

奏人は、もう起きている。

階段を下りる途中、玄関に並んだ荷物が見えた。

二つの旅行鞄。

そして、黒い輸送ケース。

昨日と同じ場所にある。

けれど、暗い朝の中では、どれも家の物ではなく、もう移動を始めるもののように見えた。

「おはよう」

台所から奏人が言った。

「おはよう、パパ」

「眠れたか?」

「少し」

「少し?」

「何回か起きた」

奏人は澪の前へ温かい飲み物を置いた。

薄いミルクに、少しだけ蜂蜜が入っている。

朝食は、小さなパンと果物だけだった。

「飛行機で食べられるから、無理に食べなくていいぞ」

「食べる」

澪は椅子へ座った。

パンを持つと、指先が少し冷えていることに気づく。

緊張しているのかもしれない。

一口食べる。

味はいつもと同じだった。

けれど、噛むたびに、自分が本当に今日ここを出るのだという感覚が近づいてくる。

奏人は台所と玄関を行き来しながら、最後の確認をしていた。

旅券。

端末。

航空券。

緊急連絡先。

作品輸送の証明書。

澪は黒いケースを見る。

「パパ」

「何だ」

「絵、本当に大丈夫?」

奏人は輸送ケースの表示を確認した。

「固定状態は正常。温度も問題ない」

「飛行機で壊れない?」

「通常の荷物とは別に扱ってもらう」

「ずっと見えるところにある?」

「機内には持ち込めない。専用区画だ」

澪はケースを見つめた。

外が見えない。

中の絵も見えない。

誰が運んでいるのかも分からなくなる。

「離れちゃうんだ」

「空港の間だけだ」

奏人は澪を見る。

「不安なら、受付まで一緒に確認するか?」

「うん」

澪はすぐに答えた。

奏人が確認を続ける。

澪はパンをもう一口食べた。

「ママ、今日は仕事?」

「向こうではな」

「遺跡?」

「そのはずだ」

澪は少し考えた。

玲から送られてくる写真で、遺跡を見たことは何度もある。

けれど、自分で歩いたことはほとんどない。

「……暗いところ?」

奏人の手が止まった。

「何でそう思うんだ?」

「遺跡って、そういう感じする」

「映画の見すぎじゃないか」

「そんなに見てないよ」

「じゃあ何でだ」

澪は少し考えた。

答えは出なかった。

「……なんとなく」

奏人は小さく笑った。

「行けば分かるさ」

「うん」

澪は残りのパンを口へ運んだ。

まだ見たことのない場所を、頭の中で少しだけ想像した。

*

家を出たとき、空はまだ濃い青色だった。

街灯の光が道路へ丸く落ち、家々の窓はほとんど暗い。

奏人が旅行鞄を二つ持ち、澪は輸送ケースの片側へ手を添えた。

「持たなくていいぞ」

「少しだけ」

「車までだ」

「分かってる」

ケースは二人で持っても重かった。

重さは、絵だけのものではない。

厚い保護材。

固定具。

温度を保つ素材。

壊さずに遠くまで運ぶために加えられたもの。

車の荷台へ収めると、奏人が固定帯を二重に掛けた。

澪は後部座席へ乗る前に、自分の家を振り返った。

閉じた窓。

庭の木。

玄関脇の照明。

毎日見ている景色なのに、今日だけ少し遠く見える。

「忘れ物?」

奏人が尋ねる。

「違う」

「じゃあ乗れ。時間だ」

澪は車へ乗った。

走り出すと、家の輪郭はすぐに木々の向こうへ隠れた。

*

空港へ向かう道路は空いていた。

窓の外を、眠っている街が流れていく。

信号。

閉じた店。

早朝の配送車。

遠くの空が、少しずつ白くなり始めている。

澪は端末を開いた。

結菜から、午前四時ちょうどにメッセージが届いていた。

《起きてますか》

澪は返信する。

《起きてる。今、空港へ向かってる》

既読はすぐについた。

《本当に起きてた》

《何で起きてるの》

《見送り》

《家にいるじゃん》

《通信で》

続けて、音声通話の着信が来る。

澪が応答すると、暗い画面の中に結菜の顔が現れた。

髪は乱れ、布団を肩まで掛けている。

「おはよう」

結菜が小さな声で言った。

「眠そう」

「澪も」

「私は旅行だから」

「私は見送りだから」

結菜の後ろから、誰かの寝返りの音が聞こえた。

「声、大丈夫?」

「小さくすれば」

結菜は画面へ顔を近づける。

「香り袋、持った?」

澪は鞄の外側の収納部を開け、白い袋を少しだけ見せた。

「ある」

「三つとも?」

「ある」

「絵は?」

澪は後ろの荷台を指した。

「そこ」

「開いてない?」

「開いてない」

「よし」

「何で結菜が確認するの」

「調査会なので」

澪は笑った。

暗い車内に、自分の笑い声が少しだけ響く。

奏人は前を向いたまま、何も言わなかった。

「空港に着いたら、もう切るね」

澪が言う。

「うん」

「向こうから連絡する」

「朝の一分」

「覚えてる」

「匂いの報告も」

「まだ日本の匂いしかないよ」

「空港は違うでしょ」

澪は窓の外を見る。

車内には、奏人の薄いコーヒーの匂いと、旅行鞄の新しい布の匂いがある。

「もう少し違うかも」

「記録しておいて」

結菜は欠伸をこらえながら言った。

それから、少しだけ声を柔らかくした。

「行ってらっしゃい、澪」

「行ってきます」

「玲さんによろしく」

「うん」

「奏人さんにも」

澪は前を見る。

「聞こえてるよ」

奏人が言った。

結菜が画面の向こうで少し慌てる。

「おはようございます」

「おはよう。もう寝た方がいい」

「見送りが終わったら寝ます」

「もう終わっただろ」

「飛行機が飛ぶまでです」

奏人は小さく笑った。

「それだと、あと何時間もあるぞ」

結菜は少し考える。

「じゃあ空港に着くまで」

「もうすぐだ」

澪が言った。

空港の誘導灯が、遠くに見え始めていた。

「じゃあ、またね」

結菜が手を振る。

「またね」

画面が暗くなる。

通話が終わったあとも、結菜の声が車内に残っているような気がした。

*

空港は、外の暗さとは別の時間で動いていた。

明るい照明。

一定の間隔で流れる案内音声。

早朝にもかかわらず、荷物を持った人が行き交っている。

澪は旅行鞄を引きながら、奏人と並んで歩いた。

黒い輸送ケースは専用の台車に載せられている。

受付の係員がケースの証明書を確認し、固定状態を読み取る。

「美術作品ですね」

「はい」

奏人が答える。

「最終目的地まで専用区画で輸送します。乗り継ぎ時にも担当者が引き継ぎます」

澪は係員を見る。

「途中で開けませんよね?」

係員は少し驚いたあと、穏やかに答えた。

「安全上の確認が必要な場合を除いて、外装を開くことはありません。内側の作品保護材には触れない規定です」

「誰が運んだか分かりますか?」

「受け渡しの記録はすべて残ります」

澪は奏人を見る。

奏人が頷く。

「大丈夫だ」

係員がケースへ管理票を取り付ける。

表示が緑色へ変わった。

《目的地:リュキア》

澪は、その文字を見つめた。

昨日までは、自分の家のリビングにあった。

その前は、自分の部屋にあった。

今はもう、知らない場所へ向かう荷物になっている。

「それでは、お預かりします」

係員が台車を押す。

ケースが少しずつ遠ざかっていく。

澪は見えなくなるまで、その場に立っていた。

「澪」

奏人が呼ぶ。

「うん」

「行くぞ」

輸送ケースはもう見えない。

けれど、自分たちと同じ経路を進んでいる。

澪は旅行鞄の持ち手を握り直した。

*

保安検査を終えると、搭乗口の近くに朝日が差し始めていた。

大きな窓の向こうに、何機もの航空機が並んでいる。

白い機体が朝の光を受け、端から少しずつ明るくなっていく。

澪は窓際の席へ座った。

「何か食べるか?」

奏人が尋ねる。

「まだいい」

「飲み物は?」

「水」

奏人が買いに行く。

澪は一人で、窓の外を眺めた。

知らない人たちが、車両や機材の間を正確に動いている。

荷物を運ぶ車。

燃料を補給する装置。

翼を確認する人。

その中のどこかに、自分の絵もいるのだろうか。

端末が震えた。

結菜からだった。

《空港着いた?》

《着いた》

《匂いは?》

澪は周囲の空気を確かめる。

洗浄された床。

温かい飲み物。

機械。

人の服。

少し遠くから、焼いたパンの匂い。

《家より冷たい匂い》

と入力する。

すぐに返事が来た。

《温度じゃなくて?》

澪はもう一度息を吸った。

温度だけではない。

何が違うのかと聞かれたら、説明できない。

けれど、家とは違う。

《匂いも》

《記録しました》

澪は少し笑って、画面を閉じた。

そのとき、空港内に搭乗開始の案内が流れる。

奏人が水を持って戻ってきた。

「行くぞ」

「うん」

澪は立ち上がった。

窓の向こうでは、朝日が滑走路の端まで届いている。

*

座席へ着くと、澪は窓側に座った。

奏人は隣だった。

手荷物を収納し、固定帯を締める。

機内には、乾いた空調の匂いと、新しい布の匂いが混ざっていた。

「香り袋を開けてもいい?」

澪が尋ねる。

「離陸後にした方がいい。今は手元の物をしまえ」

「分かった」

澪は袋を鞄へ戻した。

航空機がゆっくり動き始める。

建物が窓の外を流れる。

地上の係員が手を振っている。

澪も小さく手を上げた。

誰に見せるためでもない。

機体が滑走路へ入る。

速度が上がる。

身体が座席へ押しつけられ、床から細かな振動が伝わってくる。

澪は窓の縁へ指を置いた。

地面が遠ざかる。

道路。

建物。

川。

森。

自分の知っている場所が、少しずつ形を失っていく。

家がどこにあるかは分からなかった。

グリーンオアシスも、学校も、結菜の家も見えない。

それでも、確かにあの地面の上にある。

雲の近くまで上がると、朝の光が窓いっぱいに入った。

澪は目を細める。

光は強かった。

けれど、何かを見せようとしているようには感じなかった。

ただ、そこにある。

奏人は前方の表示を確認している。

澪は鞄から白い香り袋を取り出した。

口を、ほんの少しだけ緩める。

タイム。

レモンバーム。

朝の窓。

知っているものが、知らない機内の空気へ混ざった。

澪は一度だけ息を吸い、袋を閉じた。

窓の外には、雲の上の光が続いている。

その下に残してきたものも、これから向かうものも、今はどちらも見えない。

それでも航空機は、

その間にある空を進んでいた。

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