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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 26|空けておく場所

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目次

空けておく場所

月曜日の朝、教室の壁面表示に、夏休みまでの日数が大きく映し出された。

《あと五日》

数字の周りでは、青い魚と白い雲がゆっくり動いている。誰かが作った夏向けの表示らしい。

教室には、四人掛けの大きな長方形のテーブルが五つある。互いに少し離れて並び、それぞれが小さな島になっていた。登校した生徒たちが声を掛け合い、夏休みの予定を話している。

澪がいつものテーブルへ着くと、伊織と結菜がすでに座っていた。澪が空いた席へ腰を下ろすと、陽斗も最後の椅子を引く。隣からひよりが端末を持って寄ってきて、テーブル越しに身をかがめた。

「夏休み、みんな何する?」

陽斗が尋ねる。

「まず、しばらく何もしない」

ひよりが答えた。

「初日から予定に入れてるの?」

「何もしない予定」

「それ、いいな」

伊織が頷く。陽斗は二人の答えを端末に書き込むふりをした。

「ひより、休養。伊織、同意。結菜は?」

「新しい料理を試す」

「予想どおり。澪は?」

澪は鞄を椅子の脇へ置いた。

「ママのところに行く」

「海外だっけ?」

ひよりが顔を上げる。

「うん。リュキア」

「海、きれいそう」

陽斗が言った。

「まだ見てないから分からない」

「写真送ってよ。きれいじゃなくても」

一瞬だけ、三つの碑文と、西へずれた遺構の軸が浮かんだ。けれど、今回行くのは玲に会うためだ。

澪は頷いた。

「写真に映るものなら」

「映らないものもあるの?」

伊織が聞いた。

結菜が、澪の向かいから自分の鼻先を指で軽く叩く。

昨日作った、三つの香り袋。

「匂いとか」

澪が答えると、ひよりが笑った。

「そういうのは帰ってから教えて」

「陽斗が写真係で、澪が匂い係?」

結菜が言う。

「俺、行かないんだけど」

陽斗が即座に返し、テーブルを囲む四人と、そのそばに立つひよりの間に笑いが広がった。澪もつられて笑う。

四つの席に座る顔と、横から会話に加わるひより。夏休みには、この朝の景色もいったん途切れる。それを寂しいと思うより先に、帰ってきてここで話す時間を思い浮かべた。
*

火曜日の放課後、結菜は澪をグリーンオアシスへ連れていった。

先日、三つの香り袋を作った料理区画ではなく、植物管理棚の横にある小さな記録台だった。

透明な保存容器が三つ並べられている。

中には、香り袋に使ったものと同じ配合の乾燥ハーブが入っていた。

《朝》

《水辺》

《帰り道》

結菜の文字で、それぞれ名前が書かれている。

「これ、何?」

澪が尋ねる。

「出発前の基準」

「基準?」

「澪が持っていく袋は、向こうの空気が混ざるでしょ」

結菜は一つ目の容器を持ち上げた。

「こっちは日本に置いておく。帰ってきたら比べる」

「本当に調査するんだ」

「そのために記録してるんだから」

結菜は容器の識別番号を端末へ登録した。

保存場所。

作成日時。

湿度。

使用した葉の割合。

試したときに澪が言った「朝みたい」という感想。

澪には、香り袋を作ったときよりも本格的に見えた。

「マリさんに許可もらったの?」

「もらった。三週間以内なら、この棚で預かってくれるって」

「私、一週間くらいで帰るよ」

「飛行機が遅れるかもしれない」

「そんなに?」

「可能性はゼロじゃない」

結菜が淡い緑の容器を開け、澪の方へ差し出す。澪は少しだけ香りを確かめた。

足水庭の水路。

葉の間から差した光。

結菜の横顔。

それらはまだ、リュキアの空気を知らない。

「帰ってきたら、違う匂いになってるかな」

澪が言う。

「同じだったら、それも結果」

結菜は蓋を閉じた。

「変わったから成功、変わらなかったから失敗じゃないよ」

その言い方が、少し奏人に似てきたと澪は思った。

「結菜、最近パパみたい」

「澪の家に出入りしすぎたかな」

「そんなに来てないでしょ」

「考え方が移ったのかも」

結菜は保存容器を棚へ戻した。

「匂いも、考え方も、近くにいると少し混ざるんだね」

澪は返事をしなかった。

あの白い少女を見た日から、自分と結菜の記憶も少しずつ混ざっているのかもしれない。

けれど、それを無理に分ける必要はない気がした。

*

水曜日、玲から短い映像が届いた。

遺構ではなく、宿泊予定の部屋だった。

白い壁。

木製の机。

二つの大きな窓。

窓の外には、低い丘と、遠くの海が少しだけ見える。

玲はカメラを持ったまま室内を歩いていた。

『ここが澪の部屋』

小さなベッドと、壁際の机が映る。

『絵を置く場所は――』

玲は窓の前で立ち止まった。

昼の光が強すぎたらしく、映像の一部が白くなる。

『ここだと明るすぎるかな』

次に、反対側の壁へ移動する。

『こっちは光が弱いかも』

映像は、玲が部屋の中を何度も行き来するところで終わっていた。

最後に短い文が付いている。

《三人で決めましょう》

澪は映像を二度見た。

絵を置く場所を、玲が一人で決めなかったことがうれしかった。

窓際がよいのか。

少し影になる壁がよいのか。

まだ誰にも分からない。

実物が到着し、その日の光を三人で見てから決める。

澪は返信欄を開いた。

《うん》

と入力し、それだけでは足りない気がして、

《もうすぐ行く》

と続けた。

送信すると、玲からすぐに光の記号が返ってきた。

*

木曜日の夜、奏人はリビングの床へ旅行用品を並べた。

壁際には、絵を収めた黒い輸送ケースが立ててある。澪の絵に合わせた、正方形に近い形だ。

衣類。

充電器。

現地用の通信端末。

常備薬。

折り畳み式の帽子。

薄い上着。

靴を保護する袋。

澪はその横へ座り、自分の鞄を開いた。

「これ、全部入れるの?」

「必要なものを選ぶ」

「全部パパが出したんでしょ」

「候補だ」

奏人は衣類を二組ずつに分ける。

「現地で洗えるから、服は多くなくていい」

「一週間あるよ」

「一週間分を持つと、帰りの荷物が入らなくなる」

「何か買うの?」

「分からない」

「じゃあ、空けておくの?」

「ああ」

奏人は鞄の底へ衣類を平らに置いた。

「荷物は、最初から一杯にしない方がいい」

「使わない場所がもったいなくない?」

「帰りに増えるものがある」

「お土産?」

「それもある」

奏人は少し考える。

「行く前には分からなかったものを、持ち帰ることもある」

澪は空いた鞄の上半分を見る。

何も入っていない。

それなのに、空ではないように感じられた。

まだ形のない何かのために、場所だけが先に用意されている。

「香り袋は?」

奏人が尋ねる。

澪は結菜からもらった箱を持ってきた。

三つの袋。

白。

淡い緑。

青みがかった灰色。

箱の蓋には、

《写真に映らないもの》

と書かれている。

「衣類と一緒に入れると、全部同じ匂いになるぞ」

奏人が言う。

「だめ?」

「困らないならいいが」

澪は少し考え、箱を鞄の外側の収納部へ入れた。

すぐに取り出せる場所。

「これは持ち歩く」

「飛行機の中でも?」

「知らない匂いばっかりだったら使う」

奏人は頷いた。

「結菜ちゃんらしいな」

「正式名称は、帰還感覚補助袋セット」

奏人の手が止まる。

「誰が付けた」

「結菜」

「機能を説明しすぎている」

「パパみたいでしょ」

「俺ならもう少し短くする」

「そういう問題?」

奏人は箱の蓋を見る。

「でも、写真に映らないもの、はいい名前だ」

澪もカードを見た。

「結菜が考えた」

「分かる気がする」

奏人は、それ以上説明しなかった。

*

金曜日。

終業日の教室には、いつもより多くの声が重なっていた。

配布物。持ち帰る教材。育てていた植物の引き取り。

メンターの話が終わると、五つの島で椅子が一斉に引かれた。陽斗は隣の島の生徒にも声を掛け、休み中に撮る写真を見せ合う約束をしている。

澪は自分たちの長方形のテーブルで、学校用の鞄を確かめた。使いかけの色鉛筆と、結菜と記録をつけたノートが入っている。

開いたページには、以前二人で書いた白い少女の記録があった。

白い髪。

水の向こう。

自分を見ていた気がした。

結菜が書いた横顔の向きは、澪の記憶と違う。その違いは、線で消されずに残っていた。

澪はノートを閉じ、学校用の鞄にしまった。リュキアへ行くからといって、この記録を持っていく必要はない。

白い少女のことを忘れたわけではない。ただ、今回の旅行の中心に置かない。

「置いてくの?」

向かいの席から結菜が尋ねる。

「うん。家に置いていく」

「向こうで見比べなくていい?」

「今はいい」

「分かった」

隣の島から来たひよりは二人のノートを見ていたが、中身を聞かなかった。その代わり、テーブルの端に手を置く。

「帰ってきたら、ここで旅行の話、聞かせてね」

「写真も」

陽斗が付け加える。

伊織は端末をしまいながら澪を見た。

「気をつけて行ってこいよ」

「うん」

夏休みが明けたら、またこのテーブルの周りに五人が集まる。澪はそこでリュキアの話をする自分たちを思い浮かべた。
*

下校時、校門の前には、迎えを待つ生徒や、友人同士で写真を撮る生徒が集まっていた。

結菜と澪は、人の少ない通学路へ入ってから歩調を緩めた。

明日からは、この道を毎朝歩く必要がない。

「明日だね」

結菜が言う。

「うん」

「今夜は?」

「最終確認。荷物と通信設定」

「何時に家出るの?」

「朝早い」

「見送りに行こうかな」

「無理だよ。まだ暗い時間だって」

「じゃあ、今日のうちに顔を見に行く」

「いま一緒にいるじゃん」

「出発前の澪には、まだ会ってない」

結菜は当然のように言った。

「でも荷造りあるよ」

「終わったあとでいい」

「パパに聞いてみる」

「奏人さんなら断らないでしょ」

「夕食まで食べていくつもり?」

「そこまでは言ってない」

結菜は少しだけ間を置く。

「食べてもいいけど」

「やっぱり」

二人は笑った。

家へ分かれる角で、結菜は澪の袖をつまんだ。

「澪」

「なに?」

「行くの、楽しみ?」

澪はすぐには答えなかった。

楽しみだった。

玲に会える。

絵を三人で開ける。

知らない海や土地を見る。

けれど、長い飛行機や、言葉の違う場所や、遺構の近くにいることを考えると、胸の奥が少し狭くなる。

「楽しみ」

澪は答えた。

「でも、それだけじゃない」

「怖い?」

「少し」

「寂しい?」

「まだ行ってないのに?」

「行く前から寂しいこともあるよ」

結菜はそう言った。

澪は結菜を見る。

「結菜は?」

「私?」

「寂しい?」

「一週間でしょ」

結菜は笑おうとした。

けれど、笑い方がいつもより少し遅かった。

「澪が毎日連絡してきたら、寂しくない」

「毎日はママと過ごせって言ったじゃん」

「朝の一分ならいい」

「一分で何話すの?」

「匂いの報告」

「それだけ?」

「あと、生きてるか」

「毎朝?」

「海外だから」

「そんな危ないところじゃないよ」

「行ってないから分からないでしょ」

結菜は澪の袖を離した。

「じゃあ、またあとで」

「うん。パパに聞いてから連絡する」

二人は別々の道へ進んだ。

数歩歩いて、澪は振り返る。

結菜も同じときに振り返っていた。

二人とも、何も言わずに手を上げた。

*

夕方、荷物の確認がひと段落した頃、結菜が青木家へ来た。

奏人が冷たい飲み物を二つ置くと、結菜は空いた鞄を見て首を傾げた。

「まだ詰めるんですか?」

「帰りのために空けてる」

奏人が答える。

「なるほど」

結菜は納得したように頷き、それから澪を見た。

「空いた分、帰ってきてからの話で埋めてね」

「話は鞄に入らないよ」

「写真に映らないものも持って帰ってくるんでしょ」

澪は棚に置いた香り袋の箱を見る。

「うん」

結菜も一緒に夕食を食べた。食卓では奏人に旅の通信時間を尋ね、リュキアの朝が日本の午後になることをもう一度確かめた。

帰るとき、澪は玄関まで見送った。

「毎朝一分は、やっぱり短いかも」

結菜が言う。

「向こうで話したいことがあったら、もっと話すよ」

「玲さんと過ごす時間もね」

「分かってる」

結菜は笑い、澪も笑った。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

結菜が曲がり角を過ぎるまで見てから、澪は家の中へ戻った。

*

出発前夜。

玄関には、奏人と澪の旅行鞄が並んでいた。

翌朝早く、二人はリュキアへ発つ。

その横には、絵を入れた黒い輸送ケースが壁際に立ててある。

リビングの照明は落とされ、荷物の輪郭だけが薄く見えていた。

澪は寝る前に一度、すべてを確認する。

旅券。

端末。

衣類。

香り袋。

スケッチブック。

鉛筆。

何かを忘れているような気がした。

「パパ」

「何だ」

奏人は台所で水筒を乾かしている。

「忘れ物ない?」

「何を忘れたか分からないなら、確認しようがない」

「そうだけど」

「必要なものは入ってる」

「たぶん?」

「確認した」

奏人は水筒の蓋を閉じた。

「向こうで足りなければ買える。全部を持っていこうとするな」

澪は自分の鞄を開く。

上半分には、まだ空いた場所が残っている。

「本当に空けたままでいいの?」

「ああ」

「何も増えなかったら?」

「そのまま帰ってくればいい」

「もったいなくない?」

奏人は澪の隣へ来て、鞄の中を見る。

「空いていることにも意味はある」

「何の?」

「決めなくていいものを、決めずに置いておける」

澪は鞄を閉じた。

分類保留。

空けておく場所。

まだ何が入るか分からない場所。

それは少しだけ、裏返した絵に似ていた。

開かなかったから、何もなかったわけではない。

見えない側に、ずっと存在していた。

「眠れそうか?」

奏人が尋ねる。

「分からない」

「朝は早いぞ」

「分かってる」

澪は輸送ケースの前へ座った。

黒い表面に、玄関の照明が細く映っている。

「ママ、起きてるかな」

「向こうはまだ夕方だ。迎えの時間を確かめてるかもしれない」

「ママなら、もう確認してそう」

「玲だからな」

奏人の声に、小さな笑いが混じる。

澪はケースの留め具へ触れた。

開けない。

その約束は、今も変わらない。

「明日、この絵も飛行機に乗るんだね」

「そうだな」

「絵は外が見えないけど」

「荷物はだいたいそうだ」

「怖くないのかな」

「絵が?」

「うん」

奏人は少し考えた。

「澪が一緒なら大丈夫だろ」

澪は黒いケースを見る。

その中の絵は、何も知らない。

どこへ行くのか。

誰に見られるのか。

どんな光の下で開かれるのか。

それでも、澪と一緒に運ばれていく。

「おやすみ」

奏人が言った。

「おやすみ、パパ」

澪は立ち上がり、階段へ向かった。

途中で振り返る。

旅行鞄。

輸送ケース。

まだ空いている場所。

どれも、朝になるまで静かに待っている。

自室の窓からは、いつもの庭が見えた。

この景色を次に見るとき、自分はどんな匂いを持ち帰っているのだろう。

澪は鞄から白い香り袋を取り出してベッドへ入り、一度だけ口を開いた。

タイムとレモンバーム。

朝の窓。

奏人が焼いたパン。

日本に残る結菜。

知っているものの匂いが、暗い部屋へ静かに広がった。

澪は袋の口を閉じ、鞄の外側の収納部へ戻した。

ベッドへ入り、目を閉じる。

明日の朝には、まだ知らない空気の方へ向かう。

鞄の中には、帰ってきたときのための場所も、ちゃんと空いていた。

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