持っていく匂い
日曜日の午前、グリーンオアシスの料理区画で、澪は小さな布袋を三枚、作業台の上へ並べていた。
白。
淡い緑。
少し青みのある灰色。
どれも手のひらに収まる大きさで、口の部分には細い紐が通されている。
「白は汚れが目立つ」
結菜が言った。
「匂いと関係ないでしょ」
「旅行用品は見た目も大事です」
「昨日まで何を作るかも決まってなかったのに」
「昨日の夜、設計しました」
結菜は自分の端末を開き、画面を澪の方へ向けた。
中央に、
《リュキア携行用・帰還感覚補助袋》
と表示されている。
澪は数秒、文字を見つめた。
「何それ」
「正式名称」
「ただの香り袋じゃなかったの?」
「それだと普通すぎる」
「帰還感覚って何?」
「向こうにいても、こっちを思い出すための感覚」
結菜は自信ありげに言った。
作業台は通常の調理台より少し低く、乾燥させたハーブが小皿ごとに分けられている。
タイム。
レモンバーム。
ローズマリー。
乾かした柑橘の皮。
少量のラベンダー。
料理区画の奥では、午前の講習に参加する人たちがパン生地をこねていた。粉を払う音や、器を重ねる音が、ときどきこちらまで届く。
マリが作業台の向こうから顔を出した。
「組み合わせは決まった?」
「まだです」
結菜が答える。
「澪は何を入れたい?」
「結菜が作るんじゃないの?」
「持っていく人の意見も必要です」
澪は小皿へ顔を近づけた。
一番に分かったのは、レモンバームの軽い香りだった。
その下に、乾いたタイムの匂いがある。
ローズマリーは少し鋭く、吸い込むと鼻の奥が冷えるように感じた。
「全部混ぜたら?」
澪が言う。
結菜は首を振った。
「何でも入れればいいわけじゃない」
「料理みたいに?」
「料理より難しいかもしれない」
「食べないのに?」
「食べないから、味で調整できない」
結菜は小さな木の匙でタイムをすくい、空の器へ落とした。
葉が乾いた音を立てる。
次にレモンバームを少し。
二つを指先で混ぜ、澪の前へ差し出す。
「どう?」
澪は匂いを確かめた。
水路のそばで結菜と食べた昼食を思い出す。
足元の土。
湯気の立つスープ。
二人で並んで座ったテーブル。
それらが一つずつ思い出されるのではなく、まとまった空気として胸の奥へ戻ってきた。
「ここっぽい」
「どこの?」
「グリーンオアシス」
「家じゃなくて?」
澪はもう一度匂いを嗅いだ。
家の台所でも、奏人は同じハーブを使う。
けれど家の匂いとは少し違う。
「家も混ざってるけど、ここの方が強い」
結菜は少し考え、乾燥させた柑橘の皮を一片だけ加えた。
「これは?」
匂いが少し明るくなった。
澪は首を傾げる。
「朝みたい」
「朝?」
「窓を開けたとき」
結菜は端末へ何かを記録する。
「タイム、レモンバーム、柑橘。朝寄り」
「朝寄りって何」
「感じたことをそのまま書いてるの」
結菜は次に、ローズマリーをほんの少し加えた。
澪が匂いを嗅ぐ。
今度は、香りの奥に細い線が通ったように感じた。
「遠くに行く感じ」
「それはいい方?」
「分からない」
「じゃあ保留」
結菜は混ぜたものを小さな紙の上へ移し、横に置いた。
結菜は手元の紙を三枚に分け、それまでに試した香りを少しずつ載せた。
作業台に、三種類の試作が並ぶ。
《朝》
《水辺》
《帰り道》
結菜が付けた仮の名前だった。
「どれが一番、こっちを思い出す?」
結菜が尋ねる。
澪は三つを順番に確かめた。
朝は、家の窓を開けたときの空気に近い。
水辺は、グリーンオアシスの足水庭を思い出す。
帰り道は、結菜と学校から歩いて帰る夕方に似ていた。
一つに決めようとすると、どれかを置いていくことになる。
「全部」
澪が言った。
結菜が眉を寄せる。
「さっき全部入れるのはだめって言ったでしょ」
「三つの袋にすればいい」
澪は並べた布袋を指した。
「朝と、水辺と、帰り道」
結菜は白、淡い緑、灰色の袋を見る。
「それだと帰還感覚補助袋じゃなくて、帰還感覚補助袋セットになる」
「名前は何でもいい」
「大事なのに」
結菜は不満そうだったが、すぐに三枚の袋を色ごとに分け始めた。
白には朝。
淡い緑には水辺。
灰色には帰り道。
マリが再び様子を見に来た。
「三つになったのね」
「一つに決められませんでした」
結菜が答える。
「決めなくてもいいと思うわ」
マリは淡い緑の袋を手に取った。
「場所を思い出す匂いは、一つじゃないもの」
「でも多すぎると分からなくなりませんか」
「その日の自分が選べばいいのよ」
マリは袋を元の位置へ戻す。
「朝を思い出したい日もあれば、帰り道が必要な日もあるでしょう」
澪は三つの袋を見た。
リュキアでは、どの匂いが必要になるだろう。
朝、知らない部屋で目を覚ましたとき。
玲と一緒に食事をするとき。
玲の仕事場を見せてもらうとき。
日本へ帰りたくなったとき。
まだ起きていないことを想像すると、袋は急に小さく見えた。
「向こうの匂いが混ざったらどうなるの?」
澪が尋ねる。
結菜の手が止まる。
「袋に?」
「うん。何回も開けてたら、リュキアの空気も入るでしょ」
「それは……」
結菜は少し考えた。
「帰ってきたとき、今とは違う匂いになってるかも」
「失敗?」
「違う」
結菜はすぐに答えた。
「旅をした匂いになる」
澪は淡い緑の袋を持ち上げた。
まだ何も入っていない軽い布が、指先で揺れる。
ここで作った匂いが、遠い場所の空気と混ざる。
戻ってきたときには、もう完全な「こちら」ではない。
けれど、向こうだけでもない。
「帰ってきたら比べよう」
結菜が言った。
「出発前に、三つとも記録しておく。帰ってきたら、どこが変わったか調べる」
「結菜も嗅ぐの?」
「私が作ったんだから当然です」
「私が向こうでずっと持ってるのに」
「だから澪の匂いも混ざるかもね」
澪は自分の服の匂いを嗅いだ。
洗剤と、少し汗の匂いがする。
「それは記録しなくていい」
「比較には必要かもしれない」
「絶対やめて」
結菜は笑った。
*
三つの袋が完成する頃には、料理区画から焼きたてのパンの匂いが広がっていた。
結菜は袋の口を一つずつ結び、紐の長さを確認する。
白い袋には、小さな黄色の糸。
淡い緑には青い糸。
灰色には赤い糸が縫いつけられている。
「目を閉じてても分かるようにした」
結菜が説明する。
「目を閉じて選ぶことある?」
「暗いところとか」
「旅行中に?」
「停電するかもしれない」
「しないと思う」
「可能性はゼロじゃない」
澪は白い袋を手に取った。
黄色の糸が指へ触れる。
匂いを確かめると、朝の台所と、開いた窓と、奏人が焼いたパンが浮かんだ。
「パパの匂いも入ってる」
「奏人さん本人の匂い?」
「料理の方」
「それならよかった」
「何が?」
「奏人さん本人の匂いは材料に入れてないから」
澪は結菜を睨んだ。
結菜は笑いながら三つの袋を小さな箱へ収める。
箱の蓋には、手書きのカードが貼られていた。
《写真に映らないもの》
澪はその文字を見る。
「これ、名前?」
「贈り物の題」
「帰還感覚補助袋じゃなかったの?」
「それは分類名」
「分ける必要ある?」
「ある」
結菜は真剣だった。
澪はカードを指でなぞる。
写真に映らないもの。
画像には映らない絵具の厚み。
通信では届かない同じ場所の光。
言葉にしなければ分からない、二人の違う見え方。
匂いも、その一つだった。
「ありがとう」
澪が言う。
結菜は少し驚いたような顔をした。
「まだ渡してないけど」
「今持ってるじゃん」
「正式には出発の日に渡すつもりだった」
「一回返すの?」
「それは変か」
結菜は箱を澪の両手へ置いた。

「じゃあ今日渡します」
「うん」
「でも、出発するまで開けすぎないでね。匂いが薄くなるから」
「さっき何回も嗅いだけど」
「試作だからいいの」
「同じ袋でしょ」
「完成した瞬間から本番です」
澪は納得できなかったが、箱を閉じた。
中で三つの袋がわずかに動く。
*
帰り道、二人はグリーンオアシスの水路に沿って歩いた。
日曜の午後は人が多く、足水庭では小さな子どもたちが水を跳ね上げている。
ロッシュは離れた場所で、年配の利用者が持つ荷物を運んでいた。
澪たちには気づいたようだったが、近づいては来なかった。
公共の仕事をしている。
結菜はロッシュへ小さく手を振った。
ロッシュの頭部表示が、一度だけ淡く光る。
それだけだった。
二人は水辺を通り過ぎる。
白い少女は現れなかった。
水面には子どもたちの足と、周囲の木々と、日曜の空が映っている。
澪は少しだけ立ち止まった。
「どうしたの?」
結菜が尋ねる。
「何でもない」
あの白い少女を探そうとは思わなかった。
以前なら、白い光が見えただけで少女の姿を探したかもしれない。
けれど今日は、箱の中から漏れるハーブの匂いと、隣を歩く結菜の足音の方が近かった。
「向こうの水って、どんな匂いかな」
澪が言う。
「水はあんまり匂わないんじゃない?」
「海もあるって」
「じゃあ塩と、石と、乾いた草」
結菜は想像しながら答えた。
「玲さんの遺構には、土の匂いもあるかも」
「ママはいつも土ついてる」
「その匂いも記録してきて」
「本人に嗅がせてって言うの?」
「作業着なら大丈夫」
「絶対変に思われる」
「料理をやる人には普通です」
「普通じゃない」
二人は笑いながら歩いた。
曲がり角の手前で、結菜が足を止める。
ここから先は、それぞれの家へ向かう道が分かれる。
「あと何日?」
結菜が尋ねた。
「出発まで?」
「うん」
澪は指で数える。
「六日」
「学校は四日」
「終業の日があるから五日」
「すぐだね」
結菜はそう言ったが、声は少しだけ遅かった。
澪も同じように感じた。
六日は短い。
けれど、これまで毎日のように会っていた二人にとって、一週間以上離れるのは長い。
「向こうから連絡する」
澪が言う。
「時差あるんでしょ」
「六時間」
「澪が夜のとき、こっちは次の日?」
「うん、夜中。だからその時間は無理だね」
「向こうの朝なら、こっちの午後」
「学校終わってる?」
「夏休みだから」
結菜は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、向こうの朝に一回」
「毎日?」
「毎日は玲さんと過ごしなさい」
澪は結菜を見る。
「結菜が毎日って言うと思った」
「言いたいけど」
結菜は箱の蓋を軽く指で叩いた。
「持っていく匂いを作ったんだから、少しくらい離れても大丈夫か試さないと」
「調査?」
「そう」
「失敗したら?」
「次はもっと強くする」
「荷物全部ハーブになるよ」
「それもあり」
結菜は手を振り、自分の道へ歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「澪」
「なに?」
「向こうで何か見ても、すぐ意味を決めなくていいからね」
澪は少し驚いた。
「パパみたい」
「調査会の方針です」
結菜はそう言って、もう一度手を振った。
澪も手を上げる。
結菜が角を曲がって見えなくなるまで、澪はその場に立っていた。
手の中の箱から、ほんの少しだけハーブの香りが漏れている。
家へ向かって歩き出す。
影が足元から長く伸びていた。
澪は箱を胸の前で持ち直した。
リュキアへ持っていくものが、また一つ増えた。
絵。
三つの匂い。
結菜の言葉。
絵と匂いは鞄へ入れられる。結菜の言葉は、しまう場所を決めなくてもついてくる。
まだ意味の決まっていないものも、きっと向こうで見る。
澪は箱を抱え直し、家までの道を歩いた。


