こちらの午後、向こうの朝
こちらの午後、向こうの朝
午後一時五十八分。
澪はリビングの時計を見ていた。
輸送ケースは、壁際へ横にして置かれている。
作品を収めてから一度も動かしていない。それでも澪は、ケースの固定状態を示す小さな緑色の表示を、朝から何度も確認していた。
奏人が投影装置の前へ座る。
「まだ二分あるぞ」
「ママは早く掛けてくるかもしれない」
「昨日も二分早かったから?」
「うん」
「偶然だろ」
奏人がそう言い終えるより先に、接続音が鳴った。
澪は奏人を見る。
「二分早い」
「玲らしいな」
投影面に光が集まる。
現れた玲は、宿舎の小さな部屋にいた。窓から入る朝の光はまだ低く、白い壁へ長い影を落としている。
髪は緩く後ろでまとめられ、手には湯気の上がるカップを持っていた。
「おはよう」
玲が笑う。
「そっちは、こんにちはね」
「おはよう、ママ」
澪は返事をしながら、玲の表情を見た。
いつもより少しだけ嬉しそうに見える。
何も知らないふりをしているのだろうか。
「今日は早いのね」
玲が言った。
「ずっと待ってた?」
「二分だけ」
「本当に?」
「お昼を食べてからは、もう少し」
玲が笑う。
奏人は投影装置の表示を確認しながら、何も言わなかった。
「ママ」
澪は朝から手元に置いていた旅程表示を持ち上げた。
玲の笑みが、少しだけ深くなる。
「これ、知ってた?」
「何かしら」
玲はわざとらしく首を傾げた。
「リュキアに行くって書いてある」
「そうなの?」
「ママが考えたんでしょ」
玲は数秒だけ何も知らない顔を続けようとしたが、先に笑ってしまった。
「ごめんなさい。もう無理」
「やっぱり」
「いつ気づいたの?」
「今朝、パパに聞いた」
「その前は?」
「何か隠してるのは分かってた。ケースとか、服とか、旅券の端末とか」
玲は奏人を見る。
「全然隠せてないじゃない」
「行き先は分かってなかった」
奏人が答える。
「それなら十分だ」
「澪はずっと疑ってたのよ」
「疑うことと特定することは違う」
澪は二人のやり取りを聞きながら、旅程を膝の上へ置いた。
「ママ」
「なに?」
「本当に会える?」
玲の表情から笑いが消えた。
代わりに、朝の光より柔らかなものが残る。
「会えるよ」
玲ははっきり答えた。
「空港まで迎えに行く。二人が着く日は、朝から予定を空けてあるから」
「急に調査が入っても?」
「入れない」
「できるの?」
「その日は、私がいなくても進められるように調整したの」
玲はカップを机へ置いた。
「今回は、澪とパパに会うための休みだから」
澪は旅程の端を指で押さえた。
朝、奏人から聞いた言葉と同じだった。
遺構ではなく、家族が最初。
「その次の日は?」
「次の日も一緒にいる予定」
「その次は?」
玲は少し考える。
「三日目は、午前中だけ確認へ行くかもしれない。でも、お昼には戻る」
「どこに?」
「二人が泊まるところへ」
「ママも一緒に泊まる?」
「もちろん」
玲は笑った。
「宿舎から荷物を持っていく。旅行の間くらい、三人で同じ場所にいたいもの」
三人で同じ場所。
澪は壁際の輸送ケースを見た。
玲も投影越しに、その視線を追う。
「絵、入れたの?」
「うん」
「開かなかった?」
「開いてない」
玲は小さく息を吸った。
「ありがとう」
「何でママがお礼言うの?」
「待っていてくれたから」
「ママも待つって言ったから」
「そうだったね」
玲は頷いた。
「こっちへ来たら、一緒に開こう」
「パパも」
澪が言う。
奏人が顔を上げた。
玲も奏人を見る。
「三人で?」
「うん」
澪はケースへ目を向けたまま答えた。
「パパはもう見てるけど、もう一回」
「分かった」
玲はすぐに答えた。
「三人で見よう」
奏人は少しだけ口元を緩めた。

「見る場所も考えておかないとな」
「普通の部屋でいいよ」
澪が言う。
「遺構の近くじゃなくて?」
奏人が尋ねる。
「絵を見るのに、遺構は関係ないでしょ」
「その通りだな」
玲が声を立てずに笑った。
「パパ、何か変なこと言った?」
「いいえ。澪の方がちゃんと分かってると思っただけ」
澪は二人を交互に見る。
また何かを共有しているように見えたが、今度は不思議と気にならなかった。
隠されていたことの一番大きな部分は、もう自分の前に開かれている。
出発する日。
到着する場所。
空港で待っている玲。
三人で絵を見る時間。
それだけ分かれば、今は十分だった。
*
通信が終わったあと、澪はすぐに結菜へメッセージを送った。
《夏休み、ママのところに行く》
送信してから、説明が足りないと思い、
《リュキア》
と続けた。
既読はすぐについた。
けれど、返事は来ない。
一分ほどして、端末が着信を知らせた。
澪が応答すると、結菜の顔が画面いっぱいに現れた。
「リュキアって、あのリュキア?」
「ほかにあるの?」
「知らないけど!」
結菜は画面の向こうで何かを落としたらしく、一度姿を消した。床へ落ちた音のあと、端末が持ち上げられる。
「いつ?」
「夏休みに入ってすぐ」
「玲さんの遺構のところ?」
「近く。遺構に行けるかはまだ決まってないって」
「すごい」
結菜は言ったあと、急に黙った。
「どうしたの?」
澪が尋ねる。
「いや、本当に行くんだと思って」
「うん」
「外国だよね」
「そうだよ」
「飛行機、何時間?」
「乗り継ぎもあるから、かなり」
「絵も持っていくの?」
澪は画面を輸送ケースの方へ向けた。
「もう入れた」
「開いた?」
「開いてない」
「玲さんと開けるんだ」
「ママと、パパと、私で」
結菜は少しだけ目を細めた。
「そっか」
その言い方に、澪は何かが引っかかった。
「結菜も見たい?」
「見たいけど、それは三人で見る絵でしょ」
「帰ってきたら見せるよ」
「いいの?」
「うん。結菜にも実物を見てほしい」
結菜の顔が明るくなる。
「じゃあ、光がある時間にしよう」
「光?」
「実物は光で変わるんでしょ。澪の家のどの時間が一番きれいか調べないと」
「また調査会?」
「大事な案件です」
結菜は笑った。
けれど、笑いが消えたあとも、画面を切ろうとはしなかった。
「澪」
「なに?」
「あの白い子のこと、調べる?」
澪はすぐには答えなかった。
セフィリア。
その名前を聞くのは、数日ぶりだった。
水面の向こうに立っていた少女。
自分を見ていたように感じた視線。
結菜には横顔に見えた、同じ場所の白い影。
「分からない」
澪は答えた。
「ママの調査場所は近いけど、私が行くのはそのためじゃないから」
「うん」
「もし何か分かっても、勝手に調べたりはしない」
「私がいないから?」
「それもある」
結菜は少し驚いた顔をした。
澪自身も、口にしてから気づいた。
セフィリアを見た場所には、結菜がいた。
同じ場所で何かを見て、違う記憶を書き、その違いを消さずに残した。
リュキアで何かを見ても、そこには結菜はいない。
澪一人の見え方だけでは、何が見えたのか分からないかもしれない。
「帰ったら話して」
結菜が言った。
「何もなくても?」
「何もなかったことも」
「うん」
「匂いも」
「匂い?」
「向こうの空気とか、食べ物とか、土とか」
結菜は指を折りながら数える。
「写真じゃ分からないもの、全部」
澪は少し笑った。
「覚えてこられるかな」
「澪は絵にすればいいじゃん」
「匂いは描けないよ」
「私があとで考える」
「何を?」
「澪の絵に合う匂い」
結菜は当然のように言った。
「澪が向こうで見たものを描いて、私がそのときの匂いを作る」
「本物と違うかもしれない」
「同じじゃなくていいんでしょ」
結菜の言葉に、澪は黙った。
同じ場所を見ても、見えるものは違う。
同じ茶葉でも、最初に気づく香りは違う。
画像は実物の一部で、全部ではない。
それでも違うもの同士を渡し合えば、一人では見えなかったところへ届くことがある。
「うん」
澪は頷いた。
「帰ってきたら、一緒に作ろう」
「約束ね」
「うん」
結菜は満足したように笑う。
「それで、調査会としては何を準備すればいい?」
「何もいらないよ」
「海外へ行く人に何も持たせない調査会なんてないでしょ」
「調査会じゃなくて旅行だってば」
「じゃあ旅行用」
「何を持たせるの?」
「まだ考えてない」
結菜はしばらく真剣な顔をした。
「向こうの匂いばっかりになったときに、こっちを思い出すもの」
「そんなのいる?」
「行ってみないと分からないでしょ」
それは奏人の言う分類保留に少し似ていた。
必要かどうか分からない。
それでも結菜は、澪が持っていける何かを考えようとしている。
「じゃあ、考えておいて」
澪が言う。
「任せて」
結菜は胸を張った。
通信を切る前に、澪はもう一度、輸送ケースを画面へ映した。
「これ、重いんだよ」
「奏人さんが持つんでしょ」
「私も途中で持つ」
「腕、また筋肉痛になるよ」
「もう治った」
「旅行の次の日に遺構へ行って、腕が痛くて何もできなくなるやつだ」
「遺構へ行くって決まってない」
「じゃあ玲さんと絵を見るとき、腕が痛くて開けられなくなる」
澪はケースの留め具を見る。
「それは困る」
「だから奏人さんに持ってもらいなさい」
「少しは持つ」
「頑固」
「結菜に言われたくない」
二人は笑った。
通信が終わると、リビングは急に静かになった。
奏人は少し離れた台所で、昼食に使った食器を片づけていた。
澪は輸送ケースの前へ座る。
朝、ケースに絵を収めたとき、澪が思い浮かべていたのは、玲と一緒に開く時間だった。
今は少し違って感じる。
まだ玲に見せていない絵。
三人で開くと決めた絵。
そして、帰ってきたら結菜にも実物を見せる絵。
閉じたままなのに、その絵を囲む人は少しずつ増えていた。
窓から午後の光が差し込み、ケースの表面へ白い線を引く。
澪はその線へ指を重ねた。
光は指のところで途切れ、その向こうからまた続いていた。


