第28話 影のある人
最初の航空機を降りたとき、澪はまだ朝の途中にいるような気がしていた。
けれど、乗り継ぎ空港の大きな窓の外には、すでに強い昼の光があった。
端末の表示には、三つの時刻が並んでいる。
日本。
現在地。
リュキア。
澪はしばらく眺めた。
どれを見れば、自分の時間なのか分からなくなる。
「眠い?」
奏人が尋ねた。
「少し」
「次の便まで二時間ある。何か食べるか」
「お腹空いてない」
「そう言って、あとで急に空くぞ」
「飛行機で食べた」
「半分残しただろ」
澪は答えず、周囲を見た。
天井が高い。
案内表示には、見慣れた文字の下に別の文字が並んでいる。
遠くで流れる放送は、途中までは分かるのに、最後だけ音の形が崩れた。
人の服。
香水。
焼いた肉。
機械で磨かれた床。
さっきまでいた空港とは違う匂いがする。
澪は端末を開き、結菜との記録欄へ入力した。
《乗り継ぎ空港。甘い匂いと、油と、冷たい床》
すぐには送らなかった。
日本は、もう夕方に近い。
結菜は起きているだろうが、今どこにいるか分からない。
「書いてるのか?」
奏人が画面を見る。
「匂い」
「結菜ちゃんへの報告?」
「うん」
「今のは何の匂いだ」
澪は少し考えた。
「人が多い場所の匂い」
「それは分類になってないな」
「パパなら何て書くの?」
奏人は一度、周囲の空気を吸い込んだ。
「清掃剤、調理油、香水、空調機の乾いた風」
「細かすぎる」
「聞いたのは澪だ」
「そうだけど」
澪は自分の記録を直さなかった。
人が多い場所の匂い。
正確ではないかもしれない。
けれど、今の澪には、それがいちばん近かった。
*
奏人は小さな店で、薄いパンに肉と野菜を挟んだものを二つ買った。
澪は要らないと言ったが、一口食べると、結局半分以上食べた。
酸味のある白いソース。
焼いた肉。
生の玉ねぎ。
知らない香草。
「これ、何の葉?」
澪が尋ねる。
奏人は自分の端末で表示を確認した。
「コリアンダーらしい」
「結菜に嗅がせたい」
「持ち帰るのは無理だぞ」
「分かってる」
「記録しておけばいい」
澪はもう一度、パンの中へ顔を近づけた。
「少し石けんみたい」
「人によって感じ方が違う」
「パパは?」
「青い葉の匂い」
「それ、何でもそうじゃない?」
奏人は黙って続きを食べた。
澪は少し笑う。
知らない場所でも、奏人はいつもの奏人だった。
それだけで、空港の広さが少し小さくなった。
*
二つ目の航空機では、澪は離陸する前に眠った。
目を覚ましたとき、窓の外には海が見えた。
雲の切れ間に、深い青が広がっている。
澪がこれまで見た海よりも濃く見え、光を返す部分だけが銀色にきらめいていた。
「もう近い?」
澪が尋ねる。
奏人は飛行経路の表示を見る。
「まだ二時間くらい」
「二時間も?」
「最初より短い」
「最初が長すぎた」
身体が座席の形に固まっている。
立ち上がると、足の裏が少ししびれた。
洗面区画で顔を洗い、席へ戻る。
窓の外の海は、どこまでも同じように続いている。
玲は、この海の近くにいる。
そう思っても、まだ実感はなかった。
通信なら、今すぐにでも顔を見ることができる。
投影なら、同じ部屋にいるように話すことだってできる。
けれど、今日向かっているのは、画面の中ではない。
同じ地面の上。
同じ時間の中。
澪は鞄から淡い緑の香り袋を出した。
《水辺》
袋の口を少し開く。
レモンバームと、湿った葉を思わせる香り。
窓の外の青い海とは、まったく違う水の匂いだった。
グリーンオアシスの水路は、もっと近く、もっと低いところを流れている。
「違うね」
澪が言う。
「何が?」
「こっちの水と、結菜の袋」
奏人は窓の外を見る。
「海は、まだ匂ってないだろ」
「見ただけでも違う」
「そうだな」
澪は袋を閉じた。
知らない海を、知っている水の匂いで塗り替える必要はない。
どちらも別のまま覚えておけばいい。
*
着陸前の案内が流れた頃、空の下に乾いた土地が見え始めた。
薄い茶色の丘。
まばらな緑。
白い道。
その向こうに、海が細長く光っている。
家々の屋根は、日本の街よりも低く、壁の色も明るかった。
「リュキア?」
澪が尋ねる。
「ああ」
奏人が答えた。
その一言で、急に胸の奥が狭くなる。
航空機が高度を下げていく。
丘が近づく。
道路を走る車が見える。
建物の影が、地面へ短く落ちている。
思っていたより、ずっと明るい。
澪は窓の縁を握った。
「ママ、もう空港にいるかな」
「いるだろう」
「まだ着いてなかったら?」
「玲の方が先に来ると言ってた」
「何時間前から?」
「聞いてない」
「絶対早く来てる」
「だろうな」
機体が地面へ触れた。
一度大きく揺れ、タイヤの音が床から伝わってくる。
澪の身体が前へ引かれ、固定帯に戻された。
窓の外を、白い空港施設と低い木々が流れていく。
本当に着いた。
その事実は、喜びより先に身体へ来た。
耳が詰まり、足が重く、口の中が乾いている。
澪は唾を飲み込んだ。
*
到着区画へ出るまでに、思っていたより時間がかかった。
入国確認。
手荷物。
通路。
また確認。
表示を追いながら歩いていると、いつの間にか奏人の半歩後ろを歩いていた。
「大丈夫か?」
奏人が振り返る。
「大丈夫」
「疲れた?」
「少し」
「もうすぐだ」
何度も聞いた言葉だった。
けれど、今度の「もうすぐ」は、本当に近かった。
荷物受取区画で旅行鞄が出てくる。
一つ。
二つ。
黒い輸送ケースは、通常の荷物とは別の扉から運ばれてきた。
係員が奏人の証明書と管理記録を照合する。
「外装異常なし。内部環境も安定しています」
澪は緑色の表示を確認した。
日本の空港で見たものと同じだった。
「開封して確認なさいますか?」
係員が尋ねる。
「大丈夫です」
奏人が答える。
澪も頷いた。
まだ開く場所ではない。
ケースが戻ってきたことで、旅の途中で離れていたものが一つ戻った。
奏人が台車へ荷物を載せる。
澪は輸送ケースの側面へ手を置いた。
少し温かい。
空港の空気のせいかもしれない。
*
自動扉の向こうに、到着ロビーが見えた。
待っている人たち。
名前を書いた表示板。
花を持つ人。
子どもを抱き上げる人。
澪は歩きながら、顔を探した。
画面の中で何度も見た顔。
白い作業着。
後ろで束ねた髪。
けれど、どこにもいない。
「パパ」
「いる」
奏人が前方を見たまま答える。
「どこ?」
「右の柱の近く」
澪は視線を移した。
最初に見えたのは、薄い生成り色のシャツだった。
次に、風で少し乱れた髪。
肩から下げた古い鞄。
靴の側面には、乾いた土がついている。
玲は、人の間に立っていた。
画面より少し小さく見えた。
同時に、ずっと大きくも見えた。
近づけば、その温もりに触れられる。
そう思うと、見慣れたはずの姿から目が離せなかった。
足。
手。
肩。
床へ落ちる影。
玲は澪を見つけると、動かなかった。
すぐに駆け寄るのではなく、そこに立ったまま、確かめるように澪を見た。
澪も足を止めた。
通信なら、玲の顔はもっと近い。
投影なら、リビングの中に立たせることもできる。
けれど今の玲には、床との間に影がある。
背後の人が玲を避けて歩く。
シャツの裾が空調の風で揺れる。
誰かが通れば、一瞬だけ姿が隠れる。
画面の中にはなかったことが、次々に目へ入ってくる。
「澪」
玲が呼んだ。
声は通信と同じだった。
でも、空港の空気を通って届いた。
澪は歩き出した。
最初はゆっくり。
途中から速くなった。
玲もこちらへ向かう。
数歩手前で、澪は一度止まりそうになった。
抱きついてよいのか分からなくなった。
長く離れていた時間が、急に二人の間へ立った。
玲の方が先に腕を広げた。
「おいで」
その言葉で、澪の足が動いた。
玲の身体にぶつかる。
思っていたより硬かった。
肩の骨。
腕の力。
服の布。
日差しで温まったような体温。
玲の鞄が澪の肘へ当たり、小さな金具の音がした。
澪は玲の背中へ腕を回した。

土。
汗。
薄い石けん。
それから、いつも玲が使っていた髪の香り。
全部が混ざっている。
通信にはなかった匂いだった。
玲の腕が強くなる。
「会いたかった」
耳の近くで声がした。
澪は返事をしようとした。
けれど、声が出なかった。
代わりに、玲のシャツを握る。
布に細かな皺が寄る。
「澪?」
玲が少し身体を離そうとする。
澪は離さなかった。
「もう少し」
やっと、それだけ言えた。
玲は何も言わず、もう一度抱きしめた。
澪の頬へ、玲の髪が触れる。
少しくすぐったい。
少し乾いている。
背中へ回された手の重さが、呼吸のたびに動く。
澪は目を閉じた。
玲が本当にここにいることは、
顔を見るより、重さで分かった。
*
どれくらいそうしていたか分からない。
先に離れたのは澪だった。
玲の顔を見る。
目の下に、薄い疲れの色がある。
投影では、光の補正で分からなかったものだった。
頬も少し日に焼けている。
「ママ、黒くなった」
澪が言う。
玲は笑った。
「最初に言うこと、それ?」
「通信だと分からなかった」
「外にいる時間が長かったから」
玲は澪の頬へ手を伸ばし、顔にかかった髪をそっと払った。
澪は、その手へ少し頬を寄せた。
玲の手は、少しざらついていた。
指先に小さな傷がある。
「澪は少し背が伸びた?」
「そんなに変わった?」
「画面だと分からないもの」
「ママも同じこと言ってる」
二人は笑った。
そのとき、少し離れた場所から奏人の声がした。
「俺にも挨拶してくれるか?」
玲が顔を上げる。
奏人は台車の横に立ち、二人を見ていた。
「ちゃんと見えてたわよ」
玲が笑う。
「荷物係かと思った」
「奏人」
玲は澪から離れ、奏人の前へ行く。
玲は奏人の腕へ手を置き、そのまま身を寄せた。
奏人も片手を台車から離し、玲の背中へ回す。
短い抱擁だった。
離れるとき、玲は澪と目が合って少し照れたように笑った。
「久しぶり」
玲が言う。
「ああ」
「それだけ?」
「疲れてるだろ」
「そういうところ、変わらないね」
玲は笑った。
奏人も少しだけ笑う。
澪はその二人を見て、胸の奥がゆっくりほどけるのを感じた。
三人が、同じ空港の床に立っている。
誰も投影ではない。
誰の声も遅れない。
同じ照明の下で、
三つの影が、別々に落ちている。
*
「それが絵?」
玲が輸送ケースへ目を向けた。
「うん」
澪が答える。
玲は近づき、ケースの表面へ手を置いた。
「無事だった?」
「表示はずっと緑だった」
「開けてないのね」
「ママとパパと三人で開けるから」
玲は澪を見る。
「今日?」
澪はすぐには答えなかった。
ここまで来れば、すぐに開きたいと思うはずだった。
けれど、身体が重い。
髪も乱れている。
口の中には、まだ機内の乾いた空気が残っている。
玲にも疲れが見える。
空港の明るい照明は、絵を見るための光ではない。
「今日は、まだいい」
澪が言う。
玲は少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かった」
「明日でもいい?」
「もちろん」
「三人でね」
「うん」
奏人が台車を押し始める。
「まず移動しよう。澪も玲も休んだ方がいい」
「私は大丈夫」
玲が言う。
「目の下に出てる」
「奏人だって」
「俺は移動しただけだ」
「十何時間も移動して、それを“だけ”って言う?」
二人の会話を聞きながら、澪は玲の横を歩く。
自動扉が開いた。
外から熱い空気が入ってくる。
乾いている。
日本の夏とは違い、肌の表面から水分を取られるような熱だった。
その中に、石と、土と、遠くの海の匂いが混ざっている。
澪は足を止め、息を吸った。
玲が振り返る。
「どうしたの?」
「匂い」
澪は答えた。
「結菜に報告する」
玲は笑う。
「最初の印象は?」
澪はもう一度、空気を確かめる。
空港の車。
熱い石。
乾いた草。
玲の服についた土。
それから、遠くにある海。
「明るくて、乾いた匂い」
「難しいね」
「まだちゃんと分からない」
「それでいいんじゃない?」
玲が言った。
澪は端末を開いた。
《リュキアに着いた》
その下に、
《明るくて、乾いた匂い》
と入力する。
送信ボタンを押す前に、もう一行足した。
《ママは土と石けんの匂いがした》
送ったあとで、本人に見られたら恥ずかしいと思った。
けれど、消すには遅かった。
「何て書いたの?」
玲が尋ねる。
「秘密」
「私のこと?」
「秘密」
玲は気になったようだったが、追及しなかった。
三人は駐車場へ向かう。
地面には、午後の光が強く落ちている。
澪は歩きながら、自分たちの影を見る。
奏人の影。
玲の影。
自分の影。
長さも、形も少しずつ違う。
それでも三つとも、
同じ方向へ伸びていた。


