まだ開かない絵
玄関の扉が閉まると、外の明るさが一枚切り取られた。
澪は靴を脱ぎ、抱えていた作品を壁際へ立てかけた。
厚い保護紙の角が床に触れ、かすかな音を立てる。
「ただいま」
「おかえり」
台所から奏人の声が返ってきた。
結菜とは門の前で別れている。家の中には、換気装置の低い音と、包丁がまな板へ当たる一定の音だけがあった。
澪は通学鞄を肩から下ろそうとして、肩の奥に鈍い痛みを感じた。
昨日の水やりと、午後の美術から家まで抱えてきた絵。
荷物を下ろしても、重さだけが腕に残っている。
奏人が台所から顔を出した。
「それ、返ってきたのか」
澪は壁際の作品を見る。
「うん」
「コンクールの?」
「うん」
奏人は近づいてきたが、保護紙には触れなかった。
「状態は?」
「傷はなかった」
「そうか」
それだけ確認すると、また台所へ戻っていく。
澪は少しだけ、その背中を見ていた。
開けてみようとは言わない。
結果が出たとき、奏人は学校の展示会場で実物を見ている。作品の前で少し離れたり、近づいたりしながら、しばらく立っていた。
玲が見たのは、送った画像だけだった。
澪は作品を持ち上げ、リビングのテーブルの横へ移した。
窓から差し込む夕方の光が、保護紙の表面を斜めに横切っている。
今ここで開けば、乾いた絵具の凹凸が見える。
塗り重ねた青が、光の角度によって少しずつ違う色を返す。
奏人もいる。
けれど、留め具へ手を掛ける気にはならなかった。
「冷蔵庫に飲み物あるぞ」
台所から声が飛んでくる。
「うん」
返事をしても、澪はその場から動かなかった。
保護紙の上には、学校名とコンクール名が記された管理票が貼られている。
作品名。
学年。
氏名。
審査結果。
並んでいる文字は、絵について間違いなく説明していた。
それでも、その紙をどれだけ読んでも、青を何度塗り直したのかは分からない。
筆を止めた時間も、乾くのを待っていた夜も、最後に光を置いたときの指の震えも書かれてはいない。
澪は保護紙の端を指でなぞり、手を離した。
*
着替えてリビングへ戻ると、奏人は夕食の下ごしらえをしていた。
細く切られた野菜が、まな板の上に色ごとに分けられている。
「今日は早いね」
「夜に少し作業があるからな」
奏人は鍋へ水を入れた。
「パパ、ママとの通信、何時?」
「向こうの作業次第だけど、八時半くらい」
澪は壁の時計を見る。
まだ三時間以上ある。
「今日は話せるの?」
「予定では」
予定では。
玲との通信では、よく使われる言葉だった。
遺構の調査は、時間どおりに終わらないことがある。測定値が変われば確認が増え、現地の担当者に呼ばれれば、通信の途中でも席を外す。
玲が悪いわけではない。
澪も分かっている。
分かっているから、通信が短くなっても不満を言わなかった。
鍋の底から、小さな泡が一つずつ浮かび始める。
「絵、今日返されたのか」
奏人が尋ねた。
「うん」
「先生は何か言ってた?」
「光の表現はよかったって。手前の空間をもう少し見せた方がいいって」
「前と同じか」
「だいたい」
「澪はどう思う?」
「分からない」
奏人はそれ以上聞かなかった。
澪はテーブルの横に立てた作品へ目を向ける。
「パパ」
「ん?」
「画像と、実物って違うよね」
包丁を動かしていた奏人の手が、一度止まった。
「違うな」
「どっちが本物?」
「実物だろ」
奏人は答えたあと、少し考えた。
「ただ、画像が偽物というわけでもない」
「じゃあ、何?」
「実物から、ある条件だけを残したもの」
鍋の蓋を少しずらし、立ち上がった湯気を逃がす。
「色と形を運ぶには便利だ。でも、重さや大きさ、その場の光までは全部持っていけない」
澪は黙って聞いていた。
「ママは、画像しか見てない」
「そうだな」
「でも、見たって言ってた」
奏人は振り返った。
澪を責めるような顔ではなかった。
「ママは、画像で見られるものを見たんだと思う」
「それだけ?」
「それが少ないとは限らない」
奏人は手を洗い、布巾で拭いた。
「でも、同じではないな」
澪は作品へ目を戻した。
奏人の答えは、どちらか一方を正しくはしなかった。
画像を見た玲も、間違ってはいない。
実物を見てほしいと思う澪も、間違ってはいない。
それでも、胸の中の小さな引っかかりは消えなかった。
「開けないのか?」
奏人が尋ねる。
澪は保護紙の留め具を見る。
「あとで」
「ママと話すとき?」
少し迷ってから、頷いた。
「一緒に見たいから」
言葉にすると、思っていたより小さな願いに聞こえた。
奏人は笑わなかった。
「分かった」
それだけ言って、再び料理へ戻った。
*
夕食が終わり、食器を片づけても、作品はまだ閉じたままだった。
澪は一度、自室へ運ぼうとしたが、結局リビングへ残した。
八時二十五分。
奏人が投影装置を起動する。
テーブルの中央に淡い光が広がり、接続待機の表示が浮かんだ。
澪は作品を椅子の横へ移した。
投影の中へ入りやすい位置。
玲が見やすい角度。
それでも、留め具は外さなかった。
「緊張してるのか?」
奏人が尋ねる。
「別に」
「そうか」
接続音が鳴る。
光が縦に伸び、その中に砂色の地面と白い作業着が現れた。
玲は簡易テントの中にいた。
髪を後ろでまとめ、首元に冷却布を巻いている。頬には薄く土がついていた。
「こんばんは」
玲が笑う。
「そっちは、もう夜ね」
「こんばんは、ママ」
澪は玲の顔を見た。
昨日より少し疲れているように見える。
それでも、声はいつもと同じだった。
「学校、どうだった?」
「普通」
「筋肉痛は?」
澪は腕を少し上げた。
「まだ痛い」
「結菜ちゃんも?」
「同じところが痛いって」
玲が笑った。
「二人とも頑張ったものね」
奏人が現地の調査状況を尋ねる。
玲は測量結果と、水脈反応の変化について短く説明した。
澪には半分ほどしか分からなかった。
その間も、椅子の横の作品が気になっていた。
早く見せたい。
けれど、話を遮ってよいのか分からない。
玲の説明が終わると、澪は作品へ手を伸ばした。
「あのね、ママ」
「なに?」
「今日――」
そのとき、玲の背後で短い警告音が鳴った。
誰かが遠くから玲を呼ぶ。
玲は振り返り、手元の端末を確認した。
「ごめんなさい。少し待って」
玲の姿が投影の中央から外れる。
現地の声が幾つか重なり、地図らしき表示が空中へ開いた。
澪は作品へ掛けていた手を離した。
奏人が現地の表示を見る。
「測定器か?」
「たぶん」
数十秒後、玲が戻ってきた。
「地下側の反応が少し変わったみたい。確認に行かないと」
「今から?」
奏人が尋ねる。
「すぐ近くだから。長くはかからないと思うけど――」
玲は澪を見た。
「さっき、何か言いかけた?」
澪は椅子の横の作品を見る。
保護紙の端が、投影の光を受けて白く浮かんでいた。
「今日、絵が返ってきた」
玲の表情が明るくなる。
「コンクールの?」
「うん」
「見せて」
玲はすぐに言った。
澪の指が、留め具へ触れる。
けれど、玲の背後でまた誰かが呼んだ。
玲は振り返り、困ったように眉を下げた。
「ごめん。ちゃんと見たいから、戻ってからでもいい?」
澪は指を止めた。
「うん」
「本当にごめんね。今日はあとで接続できると思う」
「大丈夫」
澪は答えた。
玲はもう一度謝り、奏人へ短く何かを伝えたあと、通信を切った。
光が消える。
リビングには、閉じたままの作品と、澪の手だけが残った。
奏人は何も言わなかった。
壁の時計が、小さく一分進む。
澪は留め具から手を離し、作品を持ち上げた。
「部屋に持っていく」
「手伝おうか?」
「大丈夫」
作品は重かった。
階段を上るたび、昨日から残る腕の痛みが戻ってくる。

自室に入ると、澪は作品を机の横へ立てかけた。
窓の外では、庭の照明を受けた木の影が揺れている。
保護紙を開けば、今でも一人で見ることはできる。
けれど、澪は照明を消した。
暗くなった部屋で、作品の輪郭だけが窓からの光に残った。
ママが戻ってくるまで。
澪はそう思った。
何時になるかは、まだ分からなかった。


