匂いのない写真
放課後、澪と結菜は校舎裏の小さな中庭へ出た。
図書室でもよかったが、結菜が「調査会っぽい場所がいい」と言い出したためだった。
中庭には丸い石のテーブルが三つあり、そのうち二つは上級生に使われていた。
二人は一番奥の、木陰に半分だけ入ったテーブルへ座った。

昼間の熱が石の表面に残っている。澪が腕を置くと、制服の布越しに温かさが伝わった。
「まず、昨日の記録」
結菜は鞄から小さなノートを取り出した。澪も自分のノートを開く。
白い髪。
水路の向こう。
声は聞こえない。
そこまでは似ていた。けれど、その先は違っている。
結菜の見た少女は、石の左側に立ち、水の流れてくる方へ顔を向けていた。
澪の見た少女は、光の集まる場所に立ち、澪自身をまっすぐ見ていた。
「昨日の夜、思い出したことある?」
結菜が尋ねる。澪は首を振った。
「思い出そうとすると、逆に分からなくなる」
「私も」
結菜はノートの端へ鉛筆を当てた。
「髪の長さ、朝は肩より下って書いたけど、今はもっと短かったような気もする」
「変わったの?」
「記憶の方が」
結菜は自分の髪を指でつまんだ。
「誰かに話すたびに、その人が言ったことも少し混ざるじゃん」
「私が長かったって言ったから?」
「それもあるかも」
結菜は書いていた髪の長さへ一本線を引いた。消してはいない。その横に、
《確信なし》
と付け足した。
「消さないんだ」
澪が言う。
「昨日そう思ったのは本当だから」
「でも、違ってたかもしれない」
「違ってたことと、そう覚えてたことは別でしょ」
結菜は当たり前のように答えた。
澪は自分のノートを見る。
《私を見ていた気がした》
少女が本当に自分を見ていたかは分からない。けれど、自分がそう感じたことまで消す必要はないのかもしれない。
澪はその行を直さなかった。
風が吹き、木の葉が鳴った。テーブルの上へ落ちていた木漏れ日が、二冊のノートの間を移動する。
「昨日の絵、まだ開けてないんだよね」
結菜が言った。
「うん」
「家に置いてきた?」
「大きいから」
「白い子の絵じゃないんだよね」
「違う。春に描いた絵」
「どんなの?」
澪は端末を開き、保存していた画像を表示した。
画面いっぱいに青と白が広がる。水辺の風景だった。
手前には暗い木の影があり、その向こうに光を受けた水面が続いている。水面の先には、輪郭の薄い建物と空が重なっていた。
結菜は画面へ顔を近づけた。
「これ、前に見せてもらったやつだ」
「画像はね」
「実物は違うの?」
「昨日、美術室で光が当たって分かった」
澪は画面の一部を拡大した。青色が何層も重なっている場所。画像では、少し暗い青の面にしか見えない。
「ここ、何度も塗ったの」
「分からない」
「実物だと盛り上がってる」
結菜は画面を横へ傾けた。当然、青の厚みは変わらない。
「画像じゃ平らだね」
「うん」
「色は見えるけど」
「色も、実物とは少し違う」
結菜は端末を受け取り、画面を明るくしたり暗くしたりした。水面の白さは変わったが、絵具の凹凸は現れなかった。
「料理の写真みたい」
結菜が言う。
「また料理?」
「分かりやすいから」
結菜は端末をテーブルへ戻した。
「写真を見れば、何が入ってるかはだいたい分かるでしょ。焼き目とか、形とか、盛りつけとか」
「うん」
「でも、匂いはしない」
澪は画面を見る。
「味も」
「温度も。パンが固いか柔らかいかも、切った音も分からない」
結菜は指先で画面の水面をなぞった。
「写真が偽物ってことじゃないけど、それだけ食べてもお腹いっぱいにはならない」
澪は少し笑った。
「絵は食べないけど」
「そういう意味じゃない」
結菜も笑い、それから澪の顔を見る。
「玲さんに実物を見てほしいの?」
「うん」
答えはすぐに出た。昨日の夜は、なぜ開けなかったのか、まだうまく言葉にできなかった。けれど、結菜に尋ねられると、それ以外の答えはなかった。
「昨日、通信で見せようとしたんだけど」
「途中で呼ばれた?」
「うん」
「また?」
「調査だから仕方ない」
澪は画面を閉じた。
「ちゃんと、ゆっくり見たいって言ってた」
「じゃあ、今日見せるの?」
「分からない」
「なんで?」
澪は少し迷った。
「昨日、絵を裏返した」
「壁の方に?」
「うん」
結菜は驚かなかった。
「見たくなかった?」
「違う」
「怒った?」
「怒ってない」
「じゃあ、まだ見る時間じゃなかった?」
澪は顔を上げた。結菜はノートの端へ、小さな鍋の絵を描いている。
「料理でも、蓋を開ける時間ってあるから」
「また料理」
「早く開けると、まだ火が通ってないときあるでしょ」
澪は考えた。
絵はもう完成している。コンクールにも出した。展示も終わった。火が通っていないわけではない。
それでも、自分の中の何かは、まだ開く時間ではないと思っていた。
「ママと一緒に見たい」
澪が言う。
「通信で?」
その問いに、澪の返事は遅れた。
通信でも玲の顔は見える。声も聞こえる。絵の画像も共有できる。実物をカメラの前へ置けば、昨日より詳しく見せることもできる。
けれど、それでは学校で見えた絵具の厚みを、玲と同じ光の下で見ることはできない。
「分からない」
澪は答えた。結菜は、それ以上聞かなかった。代わりにノートを閉じる。
「今日の調査結果」
「もう終わり?」
「うん」
結菜は指を一本ずつ立てた。
「同じ場所を見ても、見えたものや覚え方は違う」
二本目。
「画像は本物の一部だけど、全部ではない」
三本目。
「絵は、玲さんと一緒に見るまでは表に向けない」
「それは調査結果なの?」
「現在の状態」
「調査会って、こんなのでいいの?」
「分からないことを分かったふりしないのが大事です」
結菜は胸を張った。
「奏人さんみたいでしょ」
「そこだけは」
「そこだけ?」
二人は笑った。
やがて、下校時刻を知らせる音が校舎から流れた。澪はノートを鞄へしまう。
立ち上がると、昨日からの筋肉痛がまだ少しだけ腕に残っていた。
「帰ろう」
結菜が言う。二人は校門へ向かった。
*
結菜と別れ、澪が家へ着くと、玄関脇に見慣れない箱が置かれていた。
正方形に近い四角形で、厚みがある。表面には衝撃吸収と温度変化を示す表示が付いている。
澪は靴を脱ぐ前に、箱の側面を見た。
《美術作品・精密平面物輸送対応》
と書かれている。
「パパ」
台所から返事がない。リビングへ入ると、奏人はテーブルで端末を操作していた。画面には、衣類や携帯機器の一覧が並んでいる。
澪が近づくと、奏人は画面を閉じた。
「おかえり」
「ただいま」
澪は玄関の方を指した。
「あの箱、何?」
「仕事で使う」
「絵を入れる箱みたいだけど」
「平たいものなら何でも入る」
「パパの仕事に絵あるの?」
奏人は一瞬だけ黙った。
「図面とか」
「図面はデータで持っていくでしょ」
「紙で必要なこともある」
澪は奏人の顔を見る。いつもと変わらない表情をしている。
けれど、さっき閉じた画面の端に、衣類の大きさを示す数字が見えた。自分の服と同じくらいだった。
「パパ」
「何だ」
「やっぱり何か隠してる?」
「隠してない」
「じゃあ、見せて」
「仕事だ」
「さっきもそう言ってた」
「仕事だからな」
奏人は端末を持って立ち上がった。
「手を洗ってこい。今日は冷たい麺にする」
「話を変えた」
「夕食の話だ」
奏人は台所へ向かう。澪はその背中を見たあと、もう一度玄関の箱へ戻った。
自室にある作品の大きさを思い浮かべる。少し余裕はあるが、ちょうど入りそうだった。
澪は箱へ触れなかった。
自室へ上がる。机の横には、裏返された作品が昨夜と同じ向きで立っている。
澪は鞄を床へ置き、白い裏面を見た。
玄関の箱。朝、奏人が伏せた旅券管理の端末。さっきの衣類の一覧。
澪は端末を取り出し、結菜へ短いメッセージを送った。
《家に絵を運ぶ箱があった》
すぐに返信が来る。
《調査会の新しい案件ですか》
《たぶん》
澪は裏返された絵へ目を向け、もう一文を送る。
《パパが何か隠してる》
結菜から、少し間を置いて返信が届いた。
《悪いことっぽい?》
澪は玄関にあった箱を思い出した。絵を守るための厚い素材。温度変化を抑える表示。落としても壊れないように作られた角。
《たぶん違う》
澪はそう送った。
夕食を知らせる奏人の声が、階下から聞こえる。
澪は端末をしまい、部屋を出た。扉を閉じる直前、昨夜から裏返されたままの作品を見る。
絵はまだ表を向かない。
玄関の箱だけが、先にその行き先を待っていた。


