水を配る手
受付区画を離れるころには、日差しがひとつ強くなっていた。
高木の枝を通り抜けた光が、通路のあちこちへ白い斑点を落としている。
シャトルを降りたときには涼しかった空気も、少しずつ温度を増していた。雨を含んだ土から立ち上る湿気が、肌の表面へ薄くまとわりつく。
澪は歩きながら、帽子をバッグから取り出した。
「もう暑くなってきた」
結菜も手のひらを額にかざし、空を見上げた。
「朝は涼しかったのにね」
「今日は二十七度まで上がるって」
「スープ日和じゃない」
「暑い日に熱いスープ?」
「暑い日こそ、香りがよく分かるの」
「それ、料理人の理屈?」
「シェフ志望の見解です」
結菜は得意そうに答え、自分も帽子をかぶった。
通路の脇では、昨夜の雨粒がまだ低木の葉に残っていた。けれど、日が当たる場所から順に、光の中へ溶けるように消えていく。
水やり集合区画へ近づくと、人の声が聞こえてきた。
子どもが三人。
学生らしい二人組。
麦わら帽子をかぶった高齢の女性。
杖を折り畳み、椅子へ腰かけている男性。
そして、シャトルで出会った二人とは別の、海外出身らしい親子。
全部で十人ほどが、道具置き場の前に集まっていた。
じょうろや散水ノズルは、すでに参加者ごとの体格に合わせて並べられている。
澪の手首でウェアラブルが震えた。
表示された自分の名前の横に、道具番号が浮かぶ。
十二番。
軽量じょうろ。
新しい手袋のサイズも反映されていた。
結菜の表示には十三番とある。
「隣だ」
結菜が言った。
「予約が一緒だからじゃない?」
「運命かもしれない」
「道具番号で運命を決めないで」
二人が指定された棚へ向かうと、東の散歩道からロッシュが戻ってきた。
車輪の表面に、小さな水滴と細い草の種が付いている。
『お待たせしました』
「カエルいた?」
澪が尋ねた。
『二匹確認しました』
「さっきの子、喜んだ?」
『非常に高い音量で喜びを表現されました』
結菜が笑った。
「Frogs?」
「それ」
『なお、水辺へ近づきすぎたため、安全距離を案内しました』
「ガイドお疲れさま」
『ありがとうございます』
ロッシュは参加者全体が見える位置へ移動した。
胸の灯が淡く広がり、作業区域の立体図が空中へ浮かぶ。
人々が自然にロッシュの方を向いた。
列を作る必要はない。
ウェアラブルを確認するために、一人ずつ名前を呼ばれることもなかった。
全員がそろったことは、すでに表示の端に示されている。
『おはようございます。本日の水やり活動を開始します』
ロッシュの声に重なり、参加者それぞれのウェアラブルへ、選択した言語で説明が表示された。
『昨夜の降雨量は十分でした。しかし、香草区画の一部と低木庭南側では、土中水分に偏りが確認されています』
立体図の二か所が青と黄色に変わる。
『本日の目的は、単純に水を追加することではありません』
小学生らしい男の子が、じょうろを持ち上げかけて止まった。
『葉の状態、土の表面、根元の湿り方を観察し、必要な場所へ必要な量だけ水を届けます』
結菜が澪の方へ顔を寄せた。
「いっぱいあげればいいわけじゃないんだね」
「根腐れするから」
「詳しい」
「何回もやってるし」
『機械による測定値は、皆さんのウェアラブルにも表示されます』
地図の上へ、土中水分と日照時間を示す細かな数字が加わった。
『ただし、数値だけで判断しないでください』
ロッシュの言葉に、澪は少し目を上げた。
『土へ触れ、葉を見て、周囲の温度を感じてください。センサーが正常でも、植物が必要としているものと一致しない場合があります』
隣にいた高齢の女性が、満足そうに頷いた。
「機械は根っこの顔まで見られないからね」
『はい。現時点では、完全には見られません』
ロッシュは真面目に答えた。
女性は楽しそうに笑った。
初夏の日差しが少しずつ強くなり、ロッシュの金属製の頭にも白い光が反射している。
澪は帽子のつばを下げた。
首筋に、じわりと汗が浮かび始めていた。
けれど、不快ではなかった。
水を使う作業が始まると分かっているせいか、暑さもこれから触れるものの一部に思えた。
『香草区画では、二人一組を基本とします。根元の状態を確認する方と、水を運ぶ方を交代してください』
結菜がすぐに澪の腕を軽く叩いた。
「組もう」
「そのつもりだったけど」
「澪が水で、私が観察?」
「交代って言ってたよ」
「最初は」
澪は結菜の顔を見た。
「ハーブを近くで見たいだけでしょ」
「Half right」
「半分は当たりなんだ」
「半分違います」
「違う方は?」
「水やりもちゃんとする」
「昨日の私と同じこと言ってる」
「良い表現は共有します」
ロッシュの胸から浮かぶ立体図に、二人の担当区画が表示された。
香草区画東列。
タイム、セージ、レモンバーム。
その下に、作業開始位置を示す小さな矢印が浮かぶ。
『青木澪さん、小暮結菜さん。お二人は東列をお願いします』
「了解」
結菜が答えた。
『開始前に、水分補給を推奨します』
「まだ働いてないけど」
『日なたの作業区画では、気温が10分前より1.8度上昇しています』
澪は水筒を取り出した。
結菜も少し不満そうな顔をしながら、素直に水を飲む。
日陰ではまだ涼しい。
けれど、区画の向こうにある開けた場所では、空気が光を含んで揺れているように見えた。
帽子をかぶっていなければ、すぐに頭が熱くなりそうだった。
二人は指定された手袋を棚から取り、手にはめた。
それから、それぞれのじょうろを受け取った。
空のじょうろは軽い。
けれど給水口で水を満たすと、取っ手が手のひらへしっかりと重さを返した。
「重っ」
結菜が両手で持ち上げる。
「入れすぎじゃない?」
「八分目って表示されたよ」
「結菜の八分目は、私の満杯くらいありそう」
澪のじょうろは少し小さい。
体格だけでなく、これまでの活動記録から運びやすい水量が調整されているらしい。
結菜が澪のじょうろを見た。
「そっち軽そう」
「交換する?」
「大丈夫。料理人は腕力も必要だから」
「まだ何も料理してないけど」
「水も食材の一部です」
「それはちょっと分かる」
二人は香草区画へ向かった。
背の低い木製の柵の切れ目を抜けると、空気の匂いが変わった。
湿った土。
葉の青さ。
日差しに温められ始めた香草。

触れてもいないのに、タイムやセージの香りが薄く混ざっている。
結菜が大きく息を吸った。
「いい匂い」
「まだスープじゃないよ」
「分かってる。でも、もう途中まではスープ」
「どのへんが?」
「未来が」
澪は思わず結菜を見た。
結菜は冗談を言ったつもりらしく、すでに最初の株の前へしゃがんでいる。
けれど、その言葉は少し面白かった。
葉の状態を確かめる。
水を与える。
必要な分だけ摘む。
厨房へ運ぶ。
誰かが料理する。
それを別の誰かが食べる。
今ここにある葉は、まだスープではない。
けれど、確かにその途中にいる。
澪も隣へしゃがんだ。
ウェアラブルには、土中水分が適正範囲より少し低いと表示されている。
結菜が指で土の表面へ触れた。
「上は乾いてる」
澪も手袋をした指を、根元から少し離れた土へ差し込んだ。
表面は温まり始めていた。
けれど、その下にはまだ雨の冷たさが残っている。
「中は湿ってる」
「じゃあ、そんなにいらない?」
「葉はどう?」
二人で株をのぞき込む。
下側の葉は張りがある。
上の若い葉だけが、日差しに向かって少し閉じていた。
結菜が首を傾ける。
「暑いから?」
「たぶん。水不足だけじゃないかも」
ロッシュの説明が思い出される。
数値だけではなく、葉を見て、土へ触れ、周囲の温度を感じる。
澪は立ち上がり、株へ落ちている光を見た。
東列の一部だけ、高木の葉の隙間から日差しが直接差している。
朝のうちは影だった場所が、太陽の移動で急に明るくなったらしい。
「根元へ少しだけにしよう」
「どのくらい?」
澪のウェアラブルに推奨量が表示されている。
澪は数字を確かめ、指先に伝わった土の湿り気と照らし合わせてから、じょうろの口を傾けた。
細い水が、葉にかからないよう根元へ落ちる。
乾いた表面の土が色を変え、水を吸い込んでいった。
昨夜の雨音とは違う、小さく規則的な音がする。
結菜はその様子を真剣に見ていた。
「そこまで」
澪がじょうろを戻す。
結菜がもう一度土へ触れた。
「広がってる」
「入れすぎてない?」
「たぶん大丈夫」
ウェアラブルの数値が、ゆっくりと更新された。
適正範囲。
結菜が満足そうに頷く。
「人間の勝ち」
「何に勝ったの」
「センサーより先に分かった」
「センサーも同じこと言ってるけど」
「引き分け?」
「協力じゃない?」
結菜は少し考えた。
「それが一番平和だね」
次の株へ移る。
今度はセージだった。
葉へ指先が触れると、少し毛羽立った感触が手袋越しに伝わる。
結菜が顔を近づけた。
「これ、いい香り」
「近すぎない?」
「観察です」
「料理研究?」
「そう」
結菜が葉へ鼻を近づけたまま答える。
その横顔へ、葉の隙間を抜けた光が落ちていた。
帽子の影の中で、目だけが明るく見える。
澪はじょうろを地面へ置き、バッグからスケッチ端末を取り出した。
「描くの?」
「ちょっとだけ」
「作業中だよ」
「観察の記録」
「便利な言葉だなあ」
結菜は言いながらも、動かずに待っている。
澪は数本の線だけで、葉をのぞき込む結菜の姿を残した。
香草の緑。
帽子の影。
頬に落ちた光。
まだ色は付けない。
今は、形だけで十分だった。
「終わり」
「早い」
「続きはあとで」
端末を閉じたとき、近くで子どもの声が上がった。
別の組が、じょうろの水を勢いよく葉の上へかけてしまったらしい。
水滴が日差しを受け、細かな光となって空中へ散る。
注意を受けた子どもは少し肩を落としたが、隣にいた高齢の女性が笑っていた。
「大丈夫。次は根元へね。葉っぱも涼しかったでしょう」
水を葉へかけてしまったことを責めるより、次にどうするかを伝えている。
誰も作業を急いでいない。
けれど、手は止まっていない。
子どもと高齢者。
学生と旅行者。
人間とロッシュ。
それぞれ違う速度で動きながら、少しずつ水が配られていく。
グリーンオアシスの中を流れているのは、水路の水だけではなかった。
「澪」
結菜が呼んだ。
「次、レモンバーム」
澪はじょうろを持ち上げた。
さっきより少し軽くなっている。
腕にかかる重さと、額へ浮かぶ汗で、自分が働いていることが分かった。
香草区画の上では、初夏の日差しがますます白くなっていた。
時計はまだ十時前だったが、空気にはもう昼の気配が混じり始めている。
結菜が帽子のつばを上げた。
「暑い」
「さっきスープ日和って言ってた」
「それとこれとは別」
「料理人の理屈は便利だね」
「澪の分類保留と同じです」
二人は笑いながら、次の株の前へしゃがんだ。
レモンバームの葉を指で軽くこすると、爽やかな香りが立ち上った。
その香りは温まった空気の中へほどけ、流れる水の匂いと混ざっていった。
澪は一度、深く息を吸った。
暑さも、汗も、土の湿り気も、じょうろの重さも、隣で笑う結菜の声も。
全部が、今ここに自分がいることを伝えていた。


