第二話 水の音で目を覚ました
昼を少し過ぎたころ、青木家の中は静かだった。
奏人は書斎に入っている。
扉の向こうから、ときどきキーボードを打つ乾いた音が聞こえた。仕事をしているのか、古い地図でも見ているのか、澪には分からない。
朝の食器はすでに片づけられ、ダイニングにはパンの匂いも、スープの湯気も残っていなかった。
母がいた場所も、もうただの木目に戻っている。
澪はリビングの窓辺に座り、膝の上へスケッチ端末を載せていた。
画面には、朝の食卓が描きかけのまま残っている。
奏人のコーヒーカップ。
自分の皿。
ジャムの瓶。
窓から入る光。
そこまでは描けていた。
けれど、食卓の中央だけが白かった。
玲がいた場所だった。
線を引こうとすると、どうしても手が止まる。
ホログラフィーの輪郭なら描ける。
髪の形も、作業着の皺も、透明なマグカップも覚えている。
それなのに、その場所へ色を置くと、何かが違うような気がした。
澪は描きかけの画面を閉じた。
窓の外には、雨上がりの森が広がっている。
午前中より雲は薄くなり、葉に残った水滴が昼の光を細かく返していた。
ベランダの端から、溜まっていた雨水が一滴ずつ落ちている。
ぽつり。
少し間を置いて、もう一度。
ぽつり。
一定ではない。
けれど、完全にばらばらでもない。
澪はソファの背へ身体を預けた。
朝から胸の中に残っている重さは、まだ消えていなかった。
コンクールのことを考えないようにすると、母のことが浮かぶ。
膝の上の端末へ視線を落とした。
昨夜の夢の少女の声が、また耳の奥へ戻ってくる。
――いちばん光っているところは、描かれていない。
澪は目を閉じた。
そんな言い方をされても困る。
描かれていないものを、どうやって描けばいいのか。
そもそも、描かれていないのなら、見えるはずがない。
ぽつり。
水が落ちる。
ぽつり。
その音は、いつの間にかベランダから聞こえているのではなくなっていた。
もう少し近く。
けれど、今いる部屋よりも遠い場所。
澪の意識は、水面の下へ沈むように、ゆっくりと昼の明るさから離れていった。
最初に見えたのは、母の手だった。
今よりずっと大きな手。
違う。
母の手が大きいのではない。
自分の手が、小さいのだ。
短い指が、玲の人差し指をしっかりと握っている。
「走らないでね」
頭の上から、母の声がした。
澪は返事をせず、目の前を流れる水を見ていた。
浅い水路だった。
透明な水が、丸い石の間を抜けて流れている。
水面には木漏れ日が揺れていた。
光は水の中へ沈んだり、浮かび上がったりしながら、絶えず形を変えている。
三歳の澪には、それが生き物のように見えた。
捕まえようとして手を伸ばす。
指が水へ触れる前に、光は別の場所へ逃げた。
「つかまらないね」
玲が笑った。
澪はもう一度手を伸ばした。
それでも、光は捕まらない。
後ろを歩いていた奏人が、荷物を抱えたまま言った。
「光だからな」
「説明になってないわよ」
「三歳に光学の話をしても仕方ないだろ」
玲の笑い声が、頭上の葉を揺らす風に混じった。
澪は二人の会話を聞きながら、また水へ手を伸ばした。
水は冷たかった。
母の手は温かかった。
その二つが同時にあることが、不思議だった。
道の先には、緑に囲まれた低い建物が見えた。
屋根の一部は草と小さな花で覆われ、壁には蔓が伸びている。
入口の近くでは、子どもたちが小さなじょうろを持って走っていた。
車椅子に乗った老人が、その様子を笑いながら見ている。
聞き慣れない言葉で話す人たちの声。
土の匂い。
濡れた木の匂い。
焼いたパンの匂い。
何かの葉を煮たような、少し青くて温かな香り。
澪は玲の手を引いた。
「おなかすいた?」
玲が尋ねた。
澪は頷いた。
「さっき食べたばかりだぞ」
奏人が言う。
「子どもは動くとすぐお腹が空くの」
「まだ入口から二十歩くらいしか動いてないけどな」
三歳の澪には、二十歩がどれくらいなのか分からなかった。
ただ、向こうから漂ってくる匂いは、確かにお腹の奥へ届いていた。
入口の前で、丸い頭をした小型の機械がこちらを向いた。
二本の細い腕と、地面を滑るための車輪を持っている。
胸の部分には、葉と道を組み合わせたような印が描かれていた。
『ようこそ。地域循環複合施設グリーンオアシスへ』
機械は丁寧に頭を下げた。
『本日の足水庭の水温は二十二・四度です。小さなお子さまは、保護者の方と一緒にご利用ください』
澪は玲の後ろへ少し隠れた。
機械の頭が、ゆっくりと傾いた。
『こんにちは』
澪は答えなかった。
『お名前を教えていただけますか』
「澪です」
玲が代わりに答えた。
「青木澪。三歳」
『ミオさん。ようこそ』
機械は、もう一度頭を下げた。
胸の印が、淡い緑色に光る。
『私は、路を守ると書いて、路守と申します』
「ろしゅ?」
澪が初めて口を開いた。
『はい。ロシュです』
「ロッシュ」
『ロシュです』
「ロッシュ」
一拍の沈黙があった。
『……ロッシュでも、問題ありません』
奏人が小さく吹き出した。
玲は口元を手で隠しながら笑った。
「よかったわね。新しい名前をもらえて」
『登録名称の変更はできません』
「でも、澪の中ではロッシュだな」
奏人が言った。
路守の胸の光が、一度だけ明滅した。
『分類保留とします』
その意味を、三歳の澪は知らない。
けれど、その言い方がおかしくて笑った。
路守は身体の向きを変え、建物の奥へ続く道を示した。
『水脈茶屋では、本日の野菜とハーブを使ったスープを提供しています』
澪は玲の手を引いた。
今度は少し強く。
「はいはい。分かったから、走らないの」
母の手が、澪の手を包み直した。
奏人の足音が、そのすぐ後ろをついてくる。
三人の影が、木漏れ日の道へ細長く伸びていた。
澪は自分の影を踏もうとして、何度も足を前へ出した。
けれど影は、そのたびに少し先へ逃げていく。
水路の向こう側に、誰かが立っていた。

白く淡い髪。
澪より少し年上に見える少女。
木漏れ日の中にいるのに、その輪郭だけが水の底にあるように揺れていた。
少女は、こちらを見ている。
三歳の澪は足を止めた。
「どうしたの?」
玲が振り返った。
澪は水路の向こうを指さした。
けれど、そこにはもう誰もいなかった。
葉の影と、水の光が重なっているだけだった。
「ひと?」
澪が言った。
玲は水路の向こうへ目を凝らした。
「誰かいた?」
澪は頷いた。
「どんな人?」
白い髪。
少し年上。
何かを言った。
けれど、言葉にしようとすると、水の音に混じってしまう。
澪はうまく答えられなかった。
そのかわり、母の手をもう一度握った。
玲はそれ以上尋ねなかった。
「また会えるといいね」
そう言って、澪の手を引いた。
三人は、水脈茶屋の方へ歩き始めた。
後ろでは、水が変わらず流れている。
その音の奥に、誰かの声があった。
名前のようでもあり、呼びかけのようでもある、細い響き。
一度聞けば忘れないはずなのに、目を覚ませば形を失ってしまう音。
澪は振り返ろうとした。
けれど、母の手の温かさと、茶屋から流れてくるスープの香りが、幼い身体を前へ引いていった。
澪は、水の音で目を覚ました。
天井が見える。
自宅のリビングだった。
身体には薄いブランケットが掛けられていた。
いつの間にか、奏人がかけてくれたらしい。
ベランダでは、雨水循環槽へ続く細い管から、残っていた水が流れ落ちている。
夢の中と同じ音だった。
澪はしばらく動かなかった。
母の手の温かさが、右手に残っているような気がした。
三歳のころのことなど、ほとんど覚えていないと思っていた。
けれど、水の冷たさも、スープの匂いも、父の足音も、不思議なほどはっきりしていた。
そして、水路の向こうに立っていた少女。
昨夜の夢に現れた少女と、同じ顔だった。
澪は身体を起こした。
膝からスケッチ端末が滑り落ちそうになり、慌てて受け止める。
画面が点灯した。
描きかけの朝の食卓が表示される。
母がいた白い場所の上に、細い線が一本だけ引かれていた。
水路のようにも見える。
道のようにも見える。
澪には、その線を描いた覚えがなかった。
画面の端で、通知が一件点滅した。
結菜からだった。
『明日九時、水脈庭の入口ね。寝坊禁止』
その下に、パンとスープの絵文字が並んでいる。
澪はしばらく通知を見つめた。
それから、短く返信した。
『そっちこそ』
送信したあと、口元が少しだけ緩んだ。
明日は日曜日。
結菜と一緒に、グリーンオアシスの水やりアルバイトへ行く。
あの水路は、今も流れている。
ロッシュも、たぶんいつもの場所にいる。
澪はもう一度、画面に残った細い線を見た。
夢の中で聞いた響きが、胸の奥へ沈んでいる。
名前だった。
そう思う。
けれど今はまだ、口に出そうとすると、水の音にほどけてしまった。


