描けなかったページ
玲の立体像が消えたあとも、リビング中央の投影面には三本の細い補助線が残っていた。
聖泉跡の基壇。
西側斜面の崩落層。
地下へ続く閉鎖通路の入口付近。
イデアが三地点の碑面方位をもとに地形図上へ引いた線は、推定された地下水脈の流れと重なりながら、既知の遺構中心ではなく、西へずれた建築軸の先で交わっている。
「通信を終了しました」
イデアの声が響く。
「表示、どうしますか」
奏人はしばらく交点を見ていたが、
「消してくれ」
と答えた。
「記録は?」
「保留のまま保存」
「了解しました。分類保留を継続します」
一本ずつ、補助線が薄くなる。
最後まで残った交点も、窓から差し込む夕方の光へ溶けるように消えた。
急に、部屋が静かになった。
冷房の低い音。
壁際の時計。
氷が少なくなったグラスの中で、水滴が滑る音。
遠いリュキアの遺構も、十年前の記録も投影面から消え、テーブルの上には飲みかけの冷たいお茶と、使い終わった冷却布だけが残った。
結菜が、背もたれへ身体を預ける。
「……なんか、今になって疲れてきた」
「今まで疲れてなかったの?」
澪が尋ねる。
「疲れてたけど、頭が勝手に走ってた」
結菜は両腕を前へ伸ばした。
朝からじょうろを持っていたせいか、腕が重そうだった。
「明日、筋肉痛になるかも」
「私も」
澪は右手を握った。
掌の中央に、持ち手の感触がまだ残っている。
指を曲げると、皮膚の下がわずかに熱を持っていた。
水面に白い少女のような姿を見たのも、この手で水を運んだのも同じ日だった。
けれど今は、その姿よりも、濡れた土や重いじょうろの方が近く感じられた。
奏人が二人のグラスへ水を足す。
「結菜ちゃんの家には連絡してある。もう少し休んでから帰ればいい」
「ありがとうございます」
結菜はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
それから澪を見る。
何かを言いかけて、いったん口を閉じた。
「何?」
澪が尋ねる。
「いや」
「言いかけたじゃん」
「白い髪の子のことなんだけど」
澪の指が止まった。
奏人は何も言わず、空になった冷却布の容器を片づけている。
「私、あの子を見たことより」
結菜は言葉を探すように、グラスの水面を見た。
「澪が名前を呼んだときの方が、ちょっと気になってる」
「私が?」
「うん」
結菜は頷いた。
「初めて見た人を呼んだ感じじゃなかった」
「どういう感じだった?」
「知ってる人を見つけたみたいだった」
澪は答えなかった。
知っているような気がする。
そう言われても、顔も声も思い出せない。
三歳の自分がどんな気持ちでその名を口にしたのかも分からない。
けれど、セフィリアという音だけは、知らない言葉を覚えたときのようには感じられなかった。
初めから身体のどこかにあり、今日になって名前の形へ戻ったような――。
「でもさ」
結菜が明るい声に戻る。
「知ってる気がするのと、本当に知ってるのは別だからね」
澪は顔を上げた。
「玲さんも言ってたじゃん。無理に思い出さなくていいって」
「うん」
「明日学校で居眠りしたら、その子のせいじゃなくて水やりのせいだから」
「結菜も寝そう」
「私は料理の勉強で疲れたことにする」
「ほとんど見てただけでしょ」
「香りを覚えるのも勉強です」
結菜は胸を張ったが、すぐに欠伸をした。
その顔がおかしくて、澪は少し笑った。
結菜も笑った。
水面に白い姿を見たあとでも、二人は明日の学校の話をして、筋肉痛を心配し、スープのおかわりを一杯で止めたことを残念がっていた。
それが澪には、少しだけありがたかった。
*
玄関を出ると、昼間の熱がまだ道路に残っていた。
それでも風には、夕方の涼しさが混じり始めている。
結菜の家は澪の家からもう少し先だった。
一人で帰れる距離だったが、澪は門の外まで見送りに出た。
「じゃあ、また明日」
結菜が言う。
「うん」
数歩進んだところで、結菜が振り返った。
「澪」
「なに?」
「絵、描く?」
何の絵かは聞かなくても分かった。
澪は少し考えた。
「まだ分からない」
「そっか」
結菜はそれ以上勧めなかった。
「描いたら見せて」
「描けたらね」
「描けなくても見せて」
「描けなかったら何を見せるの」
「描けなかったページ」
澪は眉を寄せた。
結菜は笑いながら手を振り、夕暮れの道を歩いていった。
その背中が曲がり角の向こうへ消えるまで、澪は門の前に立っていた。
家へ戻ると、台所から包丁の音が聞こえた。
奏人が夕食の野菜を切っている。
一定の間隔で、刃がまな板へ当たっていた。
澪はリビングへ戻り、ソファの横に置いていた鞄からスケッチブックを取り出した。
開いたのは白いページだった。
鉛筆を持つ。
最初に描こうとしたのは少女の髪だった。
けれど線を引く直前で、手が止まった。
顔が思い出せないわけではない。
水面の向こうに立つ姿も、光を受けた白い髪も覚えている。
それなのに、描いてしまうと何かを決めてしまう気がした。
誰だったのか。
どこにいたのか。
こちらを見ていたのか。
まだ決めてはいけないものまで、一本の線で囲ってしまいそうだった。
「描けないか」
台所から奏人の声がした。
澪は少し驚いた。

「見てたの?」
「見てはいない。音がしなかったから」
奏人は包丁を置き、布巾で手を拭いた。
「鉛筆を持つと、いつも少し音がするだろ」
澪は鉛筆の先を見る。
「描いた方がいい?」
「誰が?」
「記録として」
奏人はすぐには答えなかった。
冷蔵庫からハーブの入った容器を取り出し、蓋を開ける。
グリーンオアシスから持ち帰ったタイムとレモンバームの香りが、台所から流れてきた。
「観測記録なら、ロッシュとイデアが残している」
奏人は言った。
「澪の絵まで、調査記録にしなくていい」
「じゃあ、何のために描くの?」
「それを決めるのは、俺じゃないだろ」
奏人は葉を一枚取り、傷んだ端を指で摘んだ。
「描きたくなったら描けばいい。描きたくないなら、今日は描かなくていい」
澪は白いページを見つめた。
「お父さんは、怖くないの?」
「何が?」
「三歳の私の声と、遠くの三つの碑文から出てきた音の候補が似てること」
奏人は少し考えた。
「怖くないと言ったら嘘になるな」
澪は顔を上げた。
父がそう答えるとは思っていなかった。
「ただ、分からないことを急いで分かる形にする方が、俺は怖い」
奏人は容器を閉じた。
「似ているという解析結果はある。分からないことは分からない。その二つを一緒にしなければ、今はそれでいい」
澪は白いページへ鉛筆を置いた。
少女ではなく、丸い器を描き始める。
昼に食べたスープの器。
その隣に、千切ったパンを一つ。
水面も白い髪も描かなかった。
ただ、器の縁に落ちていた光と、その下にあった薄い影を線にした。
*
その夜。
澪が入浴を終えて自室へ戻ったあと、奏人はリビングの照明を一段暗くした。
テーブルの上には、夕食に使ったハーブの香りがまだ残っている。
「イデア」
「はい」
「玲へ接続。個人回線」
数秒後、リビングの端に淡い立体像が立ち上がった。
玲は調査用の帽子を脱ぎ、岩陰の簡易休憩所に座っていた。
昼前よりも頬に土がついている。
「澪は?」
玲が最初に尋ねた。
「部屋に戻った。結菜ちゃんも無事に帰った」
「そう」
玲は息を吐いた。
その顔から、まず母親としての緊張が少し抜けた。
「午後の測量は?」
奏人が尋ねる。
「三地点の碑面方位をもう一度測ったあと、補助線と推定水脈が収束した地点を、安全区域から調べた。でも、まだ確定できるものはないわ」
玲は手元の端末を見た。
「地表には、入口も人工構造の痕跡もない。地中探査では、交点の下にある含水層だけが、周囲と少し違う反応を示している」
「掘るのか?」
「いいえ。少なくとも今は」
玲は即座に答えた。
「セフィリアに近い推定音候補が示されたからといって、澪を理由に調査手順を変えるつもりはないわ」
奏人は頷いた。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
「旅行のこと」
玲が言った。
奏人は廊下の方を見る。
澪の部屋から音はしない。
「予定どおりでいいと思う」
奏人は声を落とした。
「今すぐ話せば、今日の出来事が理由で連れていくように見える」
「私もそう思う」
玲は膝の上で両手を組んだ。
「澪に来てほしいのは、あの子が何かを見たからじゃない」
「玲に会わせるためだ」
「ええ」
立体像の玲には影がなかった。
それでも、その声には疲れがあり、離れている時間の重さがあった。
「私が会いたいから」
玲は小さく笑った。
「それが最初の理由だったもの」
奏人も笑った。
「じゃあ、澪へ話すのは一週間後にしよう」
「驚くかしら」
「たぶん、驚く前に黙る」
「澪らしいわね」
「そのあと、荷物を詰め始める」
「それも澪らしい」
二人はしばらく、遺構でも碑文でもない娘の話をした。
旅行鞄は以前のものが使えるか。
現地の日中の暑さ。
澪が飛行機の中で読む本。
玲が休みを取れる日。
セフィリアという名前は、その間、一度も出なかった。
分からないものを無理に遠ざけるのではなく、家族の時間をその名前だけに奪わせないために。
やがて玲が現地の調査へ戻り、通信が切れた。
奏人は一人になったリビングで、暗くなった窓を見た。
窓ガラスには、テーブルと椅子と、自分の姿が映っている。
その足元には、照明を受けた影があった。
奏人はしばらくそれを見てから、澪が閉じ忘れていたスケッチブックを静かに閉じた。


