セフィリア
二人は、ほとんど同時にスープをすくった。
スープの表面には、細かな油の輪が浮かんでいる。
金色の輪の間を、柔らかく煮込まれた白いんげん豆と、角を丸くした根菜がゆっくり沈んでいく。
澪は湯気の向こうへ顔を近づけた。
最初に届いたのは、タイムの青い香りだった。
けれど、それだけではない。
炒めた玉ねぎの甘さ。
土の匂いをわずかに残した根セロリ。
豆のやわらかな香り。
そのすべてを、ローリエの静かな苦みが奥から支えている。
どれか一つだけが前へ出ているわけではなかった。
澪はスプーンの中のスープを見つめた。
まだ熱い。
表面へ息を吹きかけると、湯気が左右へほどけた。
少し冷ましてから、口へ運ぶ。
最初に触れたのは温度だった。
唇には熱く、舌の上ではもう少しやわらかい。
塩味は思っていたより薄い。
そのため、一口目では、何かが足りないようにも感じた。
けれど噛むと、豆の中から甘さがほどけた。
根菜は力を入れて噛む必要がないほど柔らかいのに、形は崩れていない。
玉ねぎは、もう玉ねぎだと分からないくらいスープへ溶け、舌の奥へゆっくり残った。
飲み込む。
温かさが、喉を通って身体の内側へ落ちていく。
さっき冷たい水を飲んだときとは反対に、今度は胸の奥から熱が広がった。
澪は無意識に息を吐いた。
「……おいしい」
声が思っていたより小さくなった。
大きな声を出すと、口の中に残っているものが逃げてしまいそうだった。
向かい側では、結菜が目を閉じていた。
スプーンを口へ運んだまま、動かない。
「泣いてる?」
澪が聞いた。
結菜は目を閉じたまま首を振った。
「まだ」
「まだって何」
「もう少し美味しかったら危なかった」
「大げさ」
「今、私の中でタイムと豆と玉ねぎが会議してる」
「仲良くしてる?」
「すごく調和してる」

結菜は目を開け、もう一度スープをすくった。
今度は根菜を一つずつ確かめるように、ゆっくり口へ入れる。
「根セロリ、先に焼いてるかも」
「分かるの?」
「たぶん。表面に少しだけ香ばしさがある」
澪も次の一口を飲んだ。
今度は味を探そうとせず、そのまま受け取ってみる。
香り。
温度。
豆の舌触り。
根菜を噛んだときの小さな抵抗。
喉を通る熱。
器を持った指先に伝わる陶器の温かさ。
小川の音。
木陰を抜けてくる風。
遠くで聞こえる皿の触れ合う音。
隣のテーブルで笑う人の声。
五感を全部使っても、まだ足りないような気がした。
味は舌だけにあるのではなかった。
朝から水を運んだ腕にもある。
土へ触れた指にもある。
汗をかいた首筋にもある。
あの香草区画で見た葉も、根元へ落とした水も、林を抜けた風も、全部がこの一口の中へ戻ってきたように感じられた。
結菜が、丸いパンを手に取った。
表面は薄く焼き色がつき、指で押すと小さく音を立てた。
「いい音」
結菜はパンを耳元へ寄せた。
「聞くの?」
「五感を総動員しています」
「匂いだけじゃなかったんだ」
「料理は全部で受け取らないと」
結菜はパンを半分に千切った。
表面が軽く裂け、中から白い湯気がわずかに立った。
小麦と酵母の香りが、スープとは違う温かさで広がる。
片方を澪へ差し出す。
「どうぞ」
「自分のあるでしょ」
「千切った方が美味しそうだったから」
澪は受け取った。
結菜の指の温度が、ほんの少しだけパンの端に残っていた。
パンをスープへ浸す。
表面が黄色く色づき、柔らかく沈んでいく。
口へ運ぶと、外側の焼けた部分だけが少し歯に触れ、そのあとはすぐにほどけた。
スープを吸ったパンは、液体でも固体でもない。
噛むたびに、豆と野菜の味が中から染み出した。
「これは」
結菜が言った。
「泣く?」
「危ない」
澪は笑った。
疲れていたことなど、すっかり忘れていた。
腕の重さも、額に浮かんでいた汗も、木陰へ着いたときの息切れも。
消えたのではない。
それらが全部、この空腹と一口の美味しさへ変わったように思えた。
働いたから、お腹が空いた。
お腹が空いたから、香りが深く届く。
香りが届いたから、誰かが育てた葉や、厨房で動いている手のことまで想像できる。
澪はもう一口、スープを飲んだ。
温かさが喉を通る。
その瞬間だった。
何の前触れもなく、一つの音が胸の奥に浮かんだ。
セフィリア。
澪の手が止まった。
スプーンの中で、スープの表面が小さく揺れる。
小川の水音。
葉を揺らす風。
食器の音。
結菜がパンを千切る音。
それらは何も変わっていない。
それなのに、その名前だけが、周囲の音から切り離されたようにはっきりと残った。
セフィリア。
今度は、夢の中よりも鮮明だった。
誰かの声として聞こえたのではない。
思い出した、と言う方が近い。
けれど、いつ覚えたのかは分からない。
初めて知った名前のようでもあり、ずっと前から自分の中にあった言葉のようでもある。
「澪?」
結菜が顔を上げた。
澪は答えなかった。
口の中には、まだパンとスープの温かさが残っている。
右手にはスプーン。
左手には、結菜が千切ってくれたパン。
自分の身体は、確かにここにある。
水脈茶屋の七番テーブル。
小川のそば。
初夏の日曜日。
結菜と一緒に食べている昼食。
それなのに、その名前は、今とは少し違う時間から届いたように感じられた。
「また、“気づいた人”の顔になってる」
結菜が言った。
澪はゆっくり瞬きをした。
「今」
「うん」
「名前を思い出した」
結菜はスプーンを器へ戻した。
「昨日の夢の?」
澪は頷いた。
「たぶん」
「何て名前?」
澪は一度、息を吸った。
口に出せば、形を失ってしまうような気もした。
けれど、今は夢の中ではない。
目の前には結菜がいる。
温かなスープがある。
パンの匂いがある。
風が小川を渡ってくる。
澪は、その一つひとつを確かめるようにしてから言った。
「セフィリア」
言葉が、二人の間へ落ちた。
大きな音ではなかった。
それでも、テーブルの上の空気がほんの少しだけ変わったように思えた。
結菜はすぐには繰り返さなかった。
茶化しもしない。
意味を尋ねることもなかった。
ただ、澪が口にした音を、いったんそのまま受け取るように黙っていた。
小川の向こうで、風が葉を揺らした。
「きれいな名前だね」
やがて結菜が言った。
「誰の名前?」
澪は首を振った。
「分からない」
「女の子?」
「たぶん」
「夢に出てきた白い髪の?」
「うん」
澪はスプーンを握ったまま、器の中を見た。
スープの表面には、木漏れ日が淡く映り込んでいる。
「昨日だけじゃないかもしれない」
「どういうこと?」
「三歳のときにも、見た気がする」
結菜の表情から、笑いが少しだけ引いた。
「ここで?」
「水路の向こう」
澪は小川へ目を向けた。
今は誰もいない。
水面には空と葉の影だけが流れている。
「昨日、昼寝してたら思い出した。ママとパパと初めてここに来たとき」
「三歳のころを?」
「夢かもしれないけど」
「でも、ロッシュは十年前のこと覚えてるよね」
結菜が言った。
澪は顔を上げた。
「記録が残ってるかも」
「聞いてみる?」
その提案に、澪の胸がわずかに動いた。
答えを知りたい。
けれど、すぐに確かめるのが少し怖い気もする。
何も残っていなければ、ただの夢になる。
何かが残っていれば、夢では済まなくなる。
「今は」
澪は少し考えてから言った。
「スープ食べる」
結菜は一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「うん。それがいい」
「冷めるし」
「大問題です」
二人はもう一度スプーンを取った。
澪はスープを口へ運んだ。
先ほどと同じ味のはずだった。
けれど、セフィリアという名前を口にしたあとのスープは、ほんの少しだけ違って感じられた。
味が変わったのではない。
自分の中に、何か新しい場所が開いたようだった。
その場所へも、スープの温かさがゆっくり届いていく。
セフィリア。
名前はもう、水の音にほどけなかった。
澪の中に、はっきりと残っていた。


