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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 14|笑顔の出迎え

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目次

笑顔の出迎え

澪が玄関の認証面へ手を伸ばすより先に、扉が内側から開いた。

「おかえり」

奏人が立っていた。

しかも、笑っていた。

何かを警戒している様子も、問い詰めるような表情もない。

いつもの少し眠そうな目元を緩め、純粋に二人の帰宅を喜んでいるような笑顔だった。

澪は伸ばしかけた手を止めた。

「ただいま」

「お邪魔します」

結菜が、いつもより深く頭を下げた。

奏人は二人の顔を交互に見る。

日差しと作業の熱が残った頬。

少し乱れた髪。

重そうに下がった肩。

それに反して、妙に冴えている目。

「ずいぶん一日を使い切った顔だな」

「使い切った」

結菜が答えた。

「でも、まだ話すことがあります」

「澪からは、家で話したいことがあると聞いた。結菜さんの家からも連絡が来ている」

結菜の肩がわずかに強張った。

澪は父を見た。

自分が送ったのは、家で話したいことがある、という短い文章だけだった。

「重大とは書いてないよ」

「そっちには、うちへ寄ってから帰るとあった」

結菜が目をそらす。

「『重大な証言をしてから帰る』とな」

奏人の笑みが少し深くなった。

「証人まで連れて帰ってきたのかと思ってな」

「だいたい合ってます」

結菜は真面目な顔で答えた。

「今日は私も見ましたから」

その言葉を聞いた瞬間、奏人の目がほんの少しだけ変わった。

笑顔は消えなかった。

けれど、その奥で何かが静かに起き上がったように見えた。

「そうか」

奏人はそれ以上を玄関では聞かなかった。

「立ったまま重大証言を受ける趣味はない。二人とも、まず靴を脱いでくれ」

結菜が足元を見た。

「すみません」

「謝るほどのことじゃない。ただ、その顔のまま玄関に立っていると、本当に世界の終わりを見てきたみたいだからな」

「そこまでは見てない」

澪が言った。

結菜が小声で付け足す。

「女の子は見ました」

奏人は一度だけ結菜を見た。

しかし、やはり質問はせず、二人が靴を脱ぐために場所を空けた。

家の中へ一歩入ると、外の熱が背中から離れた。

リビングには、冷やしすぎない程度の涼しい空気が流れている。

窓の外側には日除けが下ろされ、午後の日差しが細かな編み目を通して床へ落ちていた。

テーブルには、透明な容器に入った冷たいお茶が置かれている。

氷。

薄く切った柑橘。

庭で摘んだらしいミントの葉。

その横には、濡らして冷やした布まで二枚用意されていた。

「準備がいい」

澪が言った。

「帰りのシャトルは見えていたからな。水やり帰りなら、たぶんこうなる」

奏人は二人の歩き方を見た。

「脚にきてるだろ」

「未来の私が歩く予定だったんですけど」

結菜が答えた。

「未来の結菜さんは間に合ったのか」

「ぎりぎりです」

「優秀だな」

リビングまでたどり着くと、結菜はソファへ腰を下ろした。

正確には、腰を下ろしたというより、身体がそのまま沈んだ。

澪も隣へ座る。

背もたれへ寄りかかった瞬間、脚と肩が一斉に重くなった。

家まで歩いてきた緊張がほどけたせいか、急に身体の輪郭まで曖昧になったようだった。

奏人が二人の前へグラスを置く。

「まず飲め」

澪は素直にグラスを取った。

結露で濡れた表面が、熱の残る指に冷たい。

一口飲むと、香ばしいお茶のあとから柑橘の酸味が薄く広がった。

結菜は半分近くを一度に飲み、長く息を吐いた。

「生き返りました」

「今日は何度目だ」

「風で一回、スープで一回、今ので一回です」

「忙しい一日だったな」

奏人は二人の向かいへ座った。

まだ急かさない。

「水やりはどうだった」

「ちゃんと役に立った」

澪が答える。

「香草区画の日照の変化を見つけたの。センサーの予測にも追加された」

「それは上出来だ」

奏人は結菜を見る。

「結菜さんは?」

「タイムとセージとレモンバームに水をやりました。あと今日のスープには、今朝摘んだタイムとローリエが使われていて――」

そこまで言って、結菜は口を閉じた。

澪が横を見る。

「料理の話から始めないって言ったよね」

「聞かれたから」

「俺が聞いた」

奏人が言った。

「話していいぞ。急ぐ必要はない」

結菜は少し迷ったあと、今日のスープのことを話し始めた。

玉ねぎ。

白いんげん豆。

根セロリ。

タイムとローリエ。

途中で香りを支えていたセロリの葉。

パンを千切ったときの音。

厨房でマルセルから教わったブーケガルニ。

話しているうちに、結菜の目には料理区画で見せた光が戻ってきた。

疲れてソファへ沈みながらも、手だけは香草を束ねるような動きをしている。

奏人はときどき短く質問しながら、最後まで聞いた。

「良い一日だったんだな」

「はい」

結菜は答えた。

澪も頷く。

「すごく」

奏人の笑顔は、まだ残っていた。

澪は、その顔を見ながら思った。

父は、たぶん待っている。

二人が話し始めるまで。

準備ができるまで。

何があったのか知りたいはずなのに、先に普通の一日の部分を聞いている。

水やり。

スープ。

料理を学びたいという、結菜の夢。

今日の出来事が、白い少女だけに塗り潰されないようにしているのかもしれない。

澪はバッグを膝の上へ載せた。

中から、マリの手書きのカードを取り出す。

「これも、もらった」

奏人は受け取り、文字へ目を落とした。

「マリか」

「知ってるの?」

「昔からな」

奏人は追伸を読んで笑った。

「おかわりは一杯まで」

「ちゃんと一杯おかわりしました」

結菜が胸を張る。

「制限いっぱいまで使ったのか」

「遠慮せず、とも書いてありました」

「規則と推奨を両方守ったわけだ」

奏人はカードを澪へ返した。

「相変わらず、あの人は紙に書くんだな」

澪はカードを受け取りながら、父の言葉を聞き逃さなかった。

昔から。

相変わらず。

ロッシュだけではない。

奏人は、自分が思っていたより深くグリーンオアシスとつながっている。

澪はカードをバッグへ戻した。

そして、膝の上で両手を組んだ。

「お父さん」

「うん」

「ロッシュの十年前の記録を見た」

奏人の笑顔が止まった。

消えたわけではない。

けれど、表情の表面にあった柔らかさが静まり、その奥の真剣さが見えるようになった。

「音声も聞いたか」

澪と結菜が同時に奏人を見た。

「知ってるの?」

「保存に同意したのは俺だからな」

「私がセフィリアって言ったことも?」

「ああ」

奏人は短く答えた。

「知っていた」

澪の胸の奥で、帰り道から続いていた緊張が、もう一段強くなる。

「どうして今まで言わなかったの」

「お前は三歳だった。それから一度も、その名前を口にしなかった」

奏人はテーブルの上で指を組んだ。

「映像にも人物は映っていない。センサーにも、説明できない光のずれが残っただけだった」

「だから忘れたままにしたの?」

「忘れさせたわけじゃない」

奏人は澪の目を見た。

「お前が自分で戻ってくるまで、こちらから意味を与えないことにした」

意味づけには、まだ早い。

澪はその言葉を思い出した。

「それを決めたのは、お父さん?」

「半分は」

「Half right」

結菜が小さく言った。

奏人が一瞬、結菜を見る。

澪は思わず少し笑った。

緊張しているのに、同じ言葉が出る。

奏人も口元を緩めた。

「そうだな。Half rightだ」

「もう半分は?」

澪が尋ねる。

「玲だ」

奏人は答えた。

「俺は記録として残すことに同意した。玲は、お前が大きくなったとき、自分から話したくなるかもしれないと言った」

ロッシュの記録に残っていた、母の言葉と同じだった。

「でも今日」

澪は続けた。

「セフィリアを思い出した」

「どこで?」

「水脈茶屋。スープを飲んだとき」

奏人が少し眉を上げた。

結菜がすぐに補う。

「すごく美味しいスープでした。香りと温度と、パンと水の音と、全部が一緒になった瞬間です」

「結菜」

「ここは大事」

奏人は口を挟まず、頷いた。

「続けて」

澪は水脈茶屋で起きたことを話した。

名前が声として聞こえたのではなく、思い出したように浮かんだこと。

三歳の記録にも、同じ名前が残っていたこと。

ロッシュの同期を待ったこと。

十年前の自分の声を聞いたこと。

奏人は一度も話を遮らなかった。

ただ、幼い澪の音声について話したときだけ、視線を少し落とした。

十年前の水路。

玲の声。

幼い澪の笑い声。

その場にいた父には、記録ではない記憶があるはずだった。

澪が話し終わると、結菜が身体を起こした。

疲労で沈んでいた背中を、意識して真っ直ぐにする。

「それから、私も見ました」

奏人が結菜へ目を向ける。

「何を?」

「白い髪の女の子です」

結菜は一語ずつ確認するように話した。

「水路の向こうに立っているように見えました。でも、人が本当に立っていたというより、水の中の光が人の形になったみたいで」

「顔は?」

「よく見えませんでした。水が揺れていたから」

「どのくらいの年齢に見えた?」

「澪より少し上。たぶん」

「服は?」

結菜は目を閉じ、記憶を探した。

「白っぽかった。でも、髪と光が混ざっていて、どこまでが髪で、どこからが服なのか分かりませんでした」

「恐怖は?」

結菜はすぐに首を振った。

「怖くはなかったです」

少し考え、付け足す。

「知らない人なのに、前から知っている人みたいでした」

奏人の指が、ほんのわずかに動いた。

「澪が名前を呼んだら、顔を上げました」

「反応したように見えた?」

「はい」

「笑った?」

結菜は澪を見る。

澪も結菜を見返した。

「笑ったと思います」

二人がほとんど同時に答えた。

部屋が静かになった。

冷却設備の小さな音。

窓の外を通る風。

グラスの中で、氷が一つ崩れる音。

奏人は二人を見たまま、しばらく何も言わなかった。

澪は父の反応を待った。

否定されるとは思っていなかった。

けれど、父が何を知っているのかは分からない。

やがて奏人は息を吐き、背もたれへ少し身体を預けた。

「二人とも、よく話してくれた」

その声は落ち着いていた。

「信じるの?」

澪が尋ねる。

「少なくとも、二人が同じ場所で、何かを見たことは疑っていない」

「ロッシュも、光学的な変化を検出した」

「記録は、俺の端末へ共有できるか?」

「できる」

澪がウェアラブルを操作する。

閲覧許可。

保護者共有。

十年前の記録と、本日の観測記録。

奏人の端末に、二件の受領表示が灯った。

「類似度九六・四パーセント」

奏人が数字を読む。

声が少し低くなった。

その視線が、リビングの棚へ移る。

そこには、朝から変わらずイデアが置かれている。

古い対話端末。

今は待機状態のはずだった。

けれど、奏人が見るより一瞬早く、イデアの淡い光が灯った。

関連記録を検出。

澪は立ち上がりかけた。

「何も送ってないよ」

「俺の端末が受け取った情報に反応した」

奏人はそう言いながらも、驚きを隠しきれていなかった。

イデアの表示が続く。

音声記号――セフィリア。
過去ログとの照合を開始。

分類保留。

結菜が小さく息を吸った。

「またそれ」

澪は奏人を見る。

「ロッシュの『意味づけには、まだ早い』って、お父さんが作ったの?」

奏人はしばらくイデアを見ていた。

それから、ゆっくり頷いた。

「言葉を書いたのは俺だ」

「何のために?」

「分からないものを、エラーとして捨てないためだ」

奏人の目に、昔の技術者の光が戻っていた。

「機械は分類できないものを、不正な入力、ノイズ、誤認識として処理したがる。人間も似たようなものだ」

奏人は十年前の記録を開く。

幼い澪の発話。

存在しない角度から届いた光。

「だが、分からないことと、存在しないことは同じじゃない」

澪は、結菜が読書天幕で言ったことを思い出した。

記録されていないから、なかったとは限らない。

結菜も同じことを思い出したらしく、少し目を見開いている。

「だから保留する」

奏人が言った。

「理解できるだけの情報が集まるまで、消さずに残す。イデアにも、初期の路守システムにも、その規則を入れた」

「イデアが先?」

「ああ」

奏人は棚の端末を見る。

「こいつは、路守より前に作った試作対話系だ」

初めて聞く話だった。

古い端末だとは知っていた。

父の仕事に関係するものだということも。

しかし、ロッシュより前から存在していたとは知らなかった。

「お父さんは、セフィリアを知ってるの?」

澪が尋ねた。

奏人は首を振った。

「名前は知っていた。三歳のお前が口にしたからな」

「意味は?」

「分からない」

「白い女の子も?」

「見ていない」

「本当に?」

澪の声には、自分でも気づかないほど強いものが混じった。

奏人は逃げずに答えた。

「本当だ。あの日、俺には何も見えなかった」

水路の向こうを指さす澪。

隣にいた玲。

少し後ろから荷物を持って歩いていた奏人。

同じ場所にいたのに、見えたものは違っていた。

「ただし」

奏人は端末へ表示された今日の記録を見た。

「今日の光学的な変化が、十年前の記録とほぼ一致したことは初めて知った」

澪は胸の前で手を握った。

父も、すべてを知っているわけではない。

そのことに少し安心し、同時に少し困った。

結菜が、空になりかけたグラスを両手で持ちながら尋ねた。

「玲さんにも、話しますか?」

奏人は頷いた。

「話す」

「今?」

「向こうの時間を確認する」

奏人が玲の現在地を表示する。

現地はまだ午前だった。

午前の調査が一区切りつき、昼休憩へ入る前の時間帯。

連絡可能。

奏人は通話の開始に触れかけて、手を止めた。

「その前に」

二人を見回す。

「もう一杯飲め」

「え?」

「証言者二人が、玲につなぐ前に倒れそうだ」

結菜は自分の身体を見下ろした。

話している間は忘れていたが、ソファから立ち上がる自信はもうなかった。

「確かに」

「頭はギラギラしてるけど」

澪が言った。

「身体が追いついてない」

奏人は立ち上がり、二人のグラスへ新しいお茶を注いだ。

氷の音が、静かになっていたリビングへ軽く響く。

結菜が冷たいグラスを受け取る。

「奏人さん」

「なんだ」

「笑って迎えてくれて、少し助かりました」

奏人は一度、意外そうな顔をした。

それから、玄関で見せたのと同じ笑顔を浮かべた。

「二人とも、ちゃんと帰ってきたからな」

水面で何が起きていたとしても。

十年前の記録が何を示したとしても。

まず、娘とその親友が一日を終え、無事に家へ戻ってきた。

父にとっては、それが最初に確認すべきことだった。

澪はグラスへ口をつけた。

冷たさが、喉を通っていく。

隣には結菜がいる。

向かいには父がいる。

棚ではイデアが、セフィリアという名前を静かに照合し続けている。

奏人が玲への通話を開いた。

リビングの中央に、淡い光が集まり始める。

笑顔で始まった出迎えの時間は、遠く離れた母へ、十年前から戻ってきた名前を伝える時間へ変わろうとしていた。

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