第一話 朝の食卓
雨上がりの朝だった。
窓の外では、森都市の木々がまだ夜の雨を抱えている。
葉の先に残った雫が、重さに耐えきれず、ひとつ、またひとつとベランダの苔へ落ちていた。遠くを走る空中リニアの低い音が、湿った空気の中へゆっくり溶けていく。
昨夜は、土砂降りだった。
窓を叩く雨音は、眠る前の澪の胸の奥まで入り込み、なかなか静まらなかった。
それなのに朝になると、世界は何事もなかったように洗われている。
青木家のダイニングには、焼きたてのパンの匂いと、温かなスープの湯気が広がっていた。
無垢のオーク材でできた食卓の中央に、母はいた。
正確には、そこに投影されていた。
「だからね、この遺構だけ、軸線が少し西にずれているの」
青木玲の声が、卓上の小さな投影装置から聞こえる。
海外の調査地から送られてくるホログラフィーは精密だった。白い作業着の皺も、まとめた髪に残る砂埃も、まるで本当にそこに座っているかのように再現されている。
玲の後ろでは、仮設調査室らしい白い壁と、遺構の立体図面が淡く浮かんでいた。
「最初から意図的にずらしたのか、それとも後の地形変化でそうなったのか。まだ判断できないのよ」
玲は楽しそうに話していた。
考古学や建築の話になると、母はいつも少しだけ早口になる。
澪はそれを知っている。
知っているからこそ、いつものように頷いた。
「うん。聞いてる」
けれど、澪が見ていたのは母の顔ではなかった。
食卓の上に落ちる光を見ていた。
母のマグカップには、影がなかった。
玲の指先がカップに触れているように見えても、そこには重さがない。光はそのまま輪郭を通り抜け、オーク材の木目の上に白く薄い揺らぎだけを残している。

毎日、母には会っている。
朝食の時間も、夕食の時間も、玲はできるだけこの食卓に投影される。
声も聞こえる。
表情も見える。
何かを思い出したとき、一拍遅れて笑う癖も変わらない。
澪は結んでいた髪にそっと手を添えた。
指先で結び目をゆるめると、肩へ落ちた髪がさらりと揺れる。
もう一度、ゆっくりと結び直した。
「澪、パン焦げるぞ」
キッチンからトレイを運んできた奏人が、軽く声をかけた。
「焦げてないし」
澪は短く返し、トーストの上に落としたジャムをナイフでゆっくり伸ばした。
赤いジャムが、焼き目の上を薄く広がっていく。
テーブルの脇に置かれたタブレットには、昨日発表された全国学生芸術コンクールの結果が、まだ表示されていた。
青木澪。
その名前は、二番目にあった。
悔しい。
その気持ちは、はっきりしている。
自分の絵には自信があった。
誰よりも光を描けたと思っていた。
夕方の窓から差し込む光。濡れた葉の上で跳ねる光。水面の奥へ沈んでいく光。
あの絵なら、一番になれると思っていた。
けれど、その悔しさの奥にある、もう少し柔らかくて重たいものには、まだ名前がついていなかった。
昨夜、雨音の向こうで聞いたような声が、ふいに耳の奥でよみがえる。
――この絵、光がきれいね。
澪はナイフを動かしたまま、ほんの少し目を伏せた。
――でも、いちばん光っているところは、描かれていない。
夢だったのかもしれない。
白く淡い髪をした、澪より少し年上に見える少女。
どこに立っていたのかも、どんな服を着ていたのかも、もう思い出せない。
名前を聞いたような気もする。
けれど目を覚ましたときには、窓を叩く雨と、その声だけが残っていた。
「澪?」
玲が画面の向こうから呼んだ。
「本当に大丈夫? 昨日の結果、少し気にしてる?」
「別に」
澪はジャムを伸ばしながら答えた。
「二番だっただけ」
玲は少し困ったように笑った。
「二番もすごいことよ」
「分かってる」
分かっている。
本当に、分かっている。
たくさんの人が応募したことも、二番に選ばれるのが簡単ではないことも。
けれど、そう言われたいわけではなかった。
では、何を言ってほしかったのか。
それを澪自身も、うまく説明できなかった。
奏人はコーヒーカップを食卓に置くと、壁面のインフォ・ディスプレイへ目をやった。
朝のニュースが、いつものように滑らかな声で流れている。
『本日より、都市圏全体の移動効率を最適化する新たな判断支援モデルが試験導入されます』
画面には、滞りなく流れる交通網と、緑に覆われた都市の立体図が映し出されていた。
『精神疲労度に応じた推奨行動プランの自動提示について、一部住民からは判断依存への懸念も――』
奏人は、ほんの少し眉を寄せた。
それからリモコンを手に取り、音量を下げる。
ニュースの声は、食器の触れ合う音よりも小さくなった。
画面の中ではまだ、きれいに整えられた未来のような都市図が回転している。
「お父さん、またニュース消した」
「消してない。音を下げただけだ」
「同じじゃん」
「朝から全部を最適化されると、パンの味が落ちる」
玲が小さく笑った。
「奏人らしいわね」
その笑い声は、確かにそこにあった。
けれど、こちら側の空気を揺らすほどではなかった。
澪は母の笑顔を見た。
毎日見ている笑顔だった。
それでも、その笑顔はこちら側の朝には触れなかった。
奏人は何も言わず、スープの入った器を澪の方へ少しだけ寄せた。
湯気が、細く立ち上っている。
「冷めるぞ」
「うん」
澪は短く答えた。
母の声も届く。
父の手も届く。
朝食も温かい。
何かが足りないと言えば、きっと贅沢なのだと思う。
けれど、足りないものがないことと、寂しくないことは、同じではなかった。
玲が、不意に視線を下げた。
画面の向こうで、白い指先が透明なマグカップの縁をなぞる。
「毎日こうして顔は見てるのにね」
独り言のような声だった。
「距離って、不思議ね」
澪は答えなかった。
返事をしようとしたら、名前のついていないものが、口からこぼれそうな気がした。
しばらくして、玲は調査室の外から呼ばれた。
誰かの声に振り返り、画面の外へ返事をする。
「そろそろ行かなくちゃ」
玲は澪と奏人を順番に見た。
「また後でね」
「気をつけて」
奏人が言った。
澪も、小さく手を上げた。
「うん。またね」
玲の輪郭が淡く揺れる。
光の粒がほどけるように、母の姿は朝の明るさの中へ静かに溶けていった。
投影が消えたあとも、食卓の中央には、誰かがそこにいたような気配だけが残った。
けれど、それは影ではなかった。
玲が座っていたはずの場所には、椅子を引いた跡も、カップの底の丸い染みも、何ひとつ残っていない。
ただ、さっきまで声があったという記憶だけが、木目の上に薄く滞っていた。
奏人は空になった投影装置を一度だけ見た。
それから何も言わず、自分のカップへコーヒーを注ぎ足した。
湯の細い音が、部屋の静けさを壊さない程度に鳴る。
壁面のニュースは、音を落とされたまま、まだ何かを伝え続けていた。
最適化。
判断支援。
精神疲労度。
推奨行動。
整えられた言葉たちは、画面の中を滞りなく流れていく。
家の中の時間だけが、土曜日の朝らしく、ゆっくりとのびていた。
澪はまだ席に残っていた。
タブレットの画面は、いつの間にか暗くなっている。
それでも澪の中では、二番目に並んだ自分の名前だけが消えずに残っていた。
ナイフの先で、ジャムの端をもう一度ならす。
窓から差し込んだ斜光が、赤い表面を透かした。
トーストの硬い縁が食卓へ落とした影は、真っ黒ではなかった。
木目の上で、ほんの少しだけ温かな色を帯びている。
血の通った指先を光にかざしたときのような、淡い茜色。
先ほどまでそこにあった母のマグカップには、どれだけ光が差しても、影ひとつ生まれなかったのに。
澪のナイフが止まった。
「どうした?」
奏人が新聞から目を上げた。
「……なんでもない」
澪はナイフを皿の上へ置き、スープを一口飲んだ。
ハーブの香りと、野菜の甘さが口の中へ広がる。
温かかった。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ形を変えたような気がした。
窓の外では、鳥の声がいつもより近く聞こえている。
雨を抱えた葉の先から、遅れて雫がひとつ落ちた。
その音に重なるように、リビングの隅で淡い光が明滅した。
古い対話端末だった。
奏人が以前、仕事で使っていた試作型の補助AI。
今ではほとんど起動することもない。
筐体の端には、消えかけた三つの文字が刻まれている。
IDA。
誰も呼びかけていない。
通知も来ていない。
それでも端末の奥で、小さな光が一度だけ、呼吸するように揺れた。
澪はそれを見たのか、見なかったのか、自分でも分からなかった。
ただ、雨はもう止んでいるはずなのに、耳の奥にはまだ微かな水音が残っていた。
端末の内部では、誰にも読まれない小さな記録が走っていた。
分類保留。
感情重量の微細な揺らぎ。
意味づけには、まだ早い。
それはまだ、名前を持たない何かの、最初の呼吸だった。


