空けておく場所
月曜日の朝、教室の壁面表示に、夏休みまでの日数が大きく映し出された。
《あと五日》
数字の周りでは、青い魚と白い雲がゆっくり動いている。誰かが作った夏向けの表示らしい。
教室には、四人掛けの大きな長方形のテーブルが五つある。互いに少し離れて並び、それぞれが小さな島になっていた。登校した生徒たちが声を掛け合い、夏休みの予定を話している。
澪がいつものテーブルへ着くと、伊織と結菜がすでに座っていた。澪が空いた席へ腰を下ろすと、陽斗も最後の椅子を引く。隣からひよりが端末を持って寄ってきて、テーブル越しに身をかがめた。
「夏休み、みんな何する?」
陽斗が尋ねる。
「まず、しばらく何もしない」
ひよりが答えた。
「初日から予定に入れてるの?」
「何もしない予定」
「それ、いいな」
伊織が頷く。陽斗は二人の答えを端末に書き込むふりをした。
「ひより、休養。伊織、同意。結菜は?」
「新しい料理を試す」
「予想どおり。澪は?」
澪は鞄を椅子の脇へ置いた。
「ママのところに行く」
「海外だっけ?」
ひよりが顔を上げる。
「うん。リュキア」
「海、きれいそう」
陽斗が言った。
「まだ見てないから分からない」
「写真送ってよ。きれいじゃなくても」
一瞬だけ、三つの碑文と、西へずれた遺構の軸が浮かんだ。けれど、今回行くのは玲に会うためだ。
澪は頷いた。
「写真に映るものなら」
「映らないものもあるの?」
伊織が聞いた。
結菜が、澪の向かいから自分の鼻先を指で軽く叩く。
昨日作った、三つの香り袋。
「匂いとか」
澪が答えると、ひよりが笑った。
「そういうのは帰ってから教えて」
「陽斗が写真係で、澪が匂い係?」
結菜が言う。
「俺、行かないんだけど」
陽斗が即座に返し、テーブルを囲む四人と、そのそばに立つひよりの間に笑いが広がった。澪もつられて笑う。
四つの席に座る顔と、横から会話に加わるひより。夏休みには、この朝の景色もいったん途切れる。それを寂しいと思うより先に、帰ってきてここで話す時間を思い浮かべた。
*
火曜日の放課後、結菜は澪をグリーンオアシスへ連れていった。
先日、三つの香り袋を作った料理区画ではなく、植物管理棚の横にある小さな記録台だった。
透明な保存容器が三つ並べられている。
中には、香り袋に使ったものと同じ配合の乾燥ハーブが入っていた。
《朝》
《水辺》
《帰り道》
結菜の文字で、それぞれ名前が書かれている。
「これ、何?」
澪が尋ねる。
「出発前の基準」
「基準?」
「澪が持っていく袋は、向こうの空気が混ざるでしょ」
結菜は一つ目の容器を持ち上げた。
「こっちは日本に置いておく。帰ってきたら比べる」
「本当に調査するんだ」
「そのために記録してるんだから」
結菜は容器の識別番号を端末へ登録した。
保存場所。
作成日時。
湿度。
使用した葉の割合。
試したときに澪が言った「朝みたい」という感想。
澪には、香り袋を作ったときよりも本格的に見えた。
「マリさんに許可もらったの?」
「もらった。三週間以内なら、この棚で預かってくれるって」
「私、一週間くらいで帰るよ」
「飛行機が遅れるかもしれない」
「そんなに?」
「可能性はゼロじゃない」
結菜が淡い緑の容器を開け、澪の方へ差し出す。澪は少しだけ香りを確かめた。
足水庭の水路。
葉の間から差した光。
結菜の横顔。
それらはまだ、リュキアの空気を知らない。
「帰ってきたら、違う匂いになってるかな」
澪が言う。
「同じだったら、それも結果」
結菜は蓋を閉じた。
「変わったから成功、変わらなかったから失敗じゃないよ」
その言い方が、少し奏人に似てきたと澪は思った。
「結菜、最近パパみたい」
「澪の家に出入りしすぎたかな」
「そんなに来てないでしょ」
「考え方が移ったのかも」
結菜は保存容器を棚へ戻した。
「匂いも、考え方も、近くにいると少し混ざるんだね」
澪は返事をしなかった。
あの白い少女を見た日から、自分と結菜の記憶も少しずつ混ざっているのかもしれない。
けれど、それを無理に分ける必要はない気がした。
*
水曜日、玲から短い映像が届いた。
遺構ではなく、宿泊予定の部屋だった。
白い壁。
木製の机。
二つの大きな窓。
窓の外には、低い丘と、遠くの海が少しだけ見える。
玲はカメラを持ったまま室内を歩いていた。
『ここが澪の部屋』
小さなベッドと、壁際の机が映る。
『絵を置く場所は――』
玲は窓の前で立ち止まった。
昼の光が強すぎたらしく、映像の一部が白くなる。
『ここだと明るすぎるかな』
次に、反対側の壁へ移動する。
『こっちは光が弱いかも』
映像は、玲が部屋の中を何度も行き来するところで終わっていた。
最後に短い文が付いている。
《三人で決めましょう》
澪は映像を二度見た。
絵を置く場所を、玲が一人で決めなかったことがうれしかった。
窓際がよいのか。
少し影になる壁がよいのか。
まだ誰にも分からない。
実物が到着し、その日の光を三人で見てから決める。
澪は返信欄を開いた。
《うん》
と入力し、それだけでは足りない気がして、
《もうすぐ行く》
と続けた。
送信すると、玲からすぐに光の記号が返ってきた。
*
木曜日の夜、奏人はリビングの床へ旅行用品を並べた。
壁際には、絵を収めた黒い輸送ケースが立ててある。澪の絵に合わせた、正方形に近い形だ。
衣類。
充電器。
現地用の通信端末。
常備薬。
折り畳み式の帽子。
薄い上着。
靴を保護する袋。
澪はその横へ座り、自分の鞄を開いた。
「これ、全部入れるの?」
「必要なものを選ぶ」
「全部パパが出したんでしょ」
「候補だ」
奏人は衣類を二組ずつに分ける。
「現地で洗えるから、服は多くなくていい」
「一週間あるよ」
「一週間分を持つと、帰りの荷物が入らなくなる」
「何か買うの?」
「分からない」
「じゃあ、空けておくの?」
「ああ」
奏人は鞄の底へ衣類を平らに置いた。
「荷物は、最初から一杯にしない方がいい」
「使わない場所がもったいなくない?」
「帰りに増えるものがある」
「お土産?」
「それもある」
奏人は少し考える。
「行く前には分からなかったものを、持ち帰ることもある」
澪は空いた鞄の上半分を見る。
何も入っていない。
それなのに、空ではないように感じられた。
まだ形のない何かのために、場所だけが先に用意されている。
「香り袋は?」
奏人が尋ねる。
澪は結菜からもらった箱を持ってきた。
三つの袋。
白。
淡い緑。
青みがかった灰色。
箱の蓋には、
《写真に映らないもの》
と書かれている。
「衣類と一緒に入れると、全部同じ匂いになるぞ」
奏人が言う。
「だめ?」
「困らないならいいが」
澪は少し考え、箱を鞄の外側の収納部へ入れた。
すぐに取り出せる場所。
「これは持ち歩く」
「飛行機の中でも?」
「知らない匂いばっかりだったら使う」
奏人は頷いた。
「結菜ちゃんらしいな」
「正式名称は、帰還感覚補助袋セット」
奏人の手が止まる。
「誰が付けた」
「結菜」
「機能を説明しすぎている」
「パパみたいでしょ」
「俺ならもう少し短くする」
「そういう問題?」
奏人は箱の蓋を見る。
「でも、写真に映らないもの、はいい名前だ」
澪もカードを見た。
「結菜が考えた」
「分かる気がする」
奏人は、それ以上説明しなかった。
*
金曜日。
終業日の教室には、いつもより多くの声が重なっていた。
配布物。持ち帰る教材。育てていた植物の引き取り。
メンターの話が終わると、五つの島で椅子が一斉に引かれた。陽斗は隣の島の生徒にも声を掛け、休み中に撮る写真を見せ合う約束をしている。
澪は自分たちの長方形のテーブルで、学校用の鞄を確かめた。使いかけの色鉛筆と、結菜と記録をつけたノートが入っている。
開いたページには、以前二人で書いた白い少女の記録があった。
白い髪。
水の向こう。
自分を見ていた気がした。
結菜が書いた横顔の向きは、澪の記憶と違う。その違いは、線で消されずに残っていた。
澪はノートを閉じ、学校用の鞄にしまった。リュキアへ行くからといって、この記録を持っていく必要はない。
白い少女のことを忘れたわけではない。ただ、今回の旅行の中心に置かない。
「置いてくの?」
向かいの席から結菜が尋ねる。
「うん。家に置いていく」
「向こうで見比べなくていい?」
「今はいい」
「分かった」
隣の島から来たひよりは二人のノートを見ていたが、中身を聞かなかった。その代わり、テーブルの端に手を置く。
「帰ってきたら、ここで旅行の話、聞かせてね」
「写真も」
陽斗が付け加える。
伊織は端末をしまいながら澪を見た。
「気をつけて行ってこいよ」
「うん」
夏休みが明けたら、またこのテーブルの周りに五人が集まる。澪はそこでリュキアの話をする自分たちを思い浮かべた。
*
下校時、校門の前には、迎えを待つ生徒や、友人同士で写真を撮る生徒が集まっていた。
結菜と澪は、人の少ない通学路へ入ってから歩調を緩めた。
明日からは、この道を毎朝歩く必要がない。
「明日だね」
結菜が言う。
「うん」
「今夜は?」
「最終確認。荷物と通信設定」
「何時に家出るの?」
「朝早い」
「見送りに行こうかな」
「無理だよ。まだ暗い時間だって」
「じゃあ、今日のうちに顔を見に行く」
「いま一緒にいるじゃん」
「出発前の澪には、まだ会ってない」
結菜は当然のように言った。
「でも荷造りあるよ」
「終わったあとでいい」
「パパに聞いてみる」
「奏人さんなら断らないでしょ」
「夕食まで食べていくつもり?」
「そこまでは言ってない」
結菜は少しだけ間を置く。
「食べてもいいけど」
「やっぱり」
二人は笑った。
家へ分かれる角で、結菜は澪の袖をつまんだ。
「澪」
「なに?」
「行くの、楽しみ?」
澪はすぐには答えなかった。
楽しみだった。
玲に会える。
絵を三人で開ける。
知らない海や土地を見る。
けれど、長い飛行機や、言葉の違う場所や、遺構の近くにいることを考えると、胸の奥が少し狭くなる。
「楽しみ」
澪は答えた。
「でも、それだけじゃない」
「怖い?」
「少し」
「寂しい?」
「まだ行ってないのに?」
「行く前から寂しいこともあるよ」
結菜はそう言った。
澪は結菜を見る。
「結菜は?」
「私?」
「寂しい?」
「一週間でしょ」
結菜は笑おうとした。
けれど、笑い方がいつもより少し遅かった。
「澪が毎日連絡してきたら、寂しくない」
「毎日はママと過ごせって言ったじゃん」
「朝の一分ならいい」
「一分で何話すの?」
「匂いの報告」
「それだけ?」
「あと、生きてるか」
「毎朝?」
「海外だから」
「そんな危ないところじゃないよ」
「行ってないから分からないでしょ」
結菜は澪の袖を離した。
「じゃあ、またあとで」
「うん。パパに聞いてから連絡する」
二人は別々の道へ進んだ。
数歩歩いて、澪は振り返る。
結菜も同じときに振り返っていた。
二人とも、何も言わずに手を上げた。
*
夕方、荷物の確認がひと段落した頃、結菜が青木家へ来た。
奏人が冷たい飲み物を二つ置くと、結菜は空いた鞄を見て首を傾げた。
「まだ詰めるんですか?」
「帰りのために空けてる」
奏人が答える。
「なるほど」
結菜は納得したように頷き、それから澪を見た。
「空いた分、帰ってきてからの話で埋めてね」
「話は鞄に入らないよ」
「写真に映らないものも持って帰ってくるんでしょ」
澪は棚に置いた香り袋の箱を見る。
「うん」
結菜も一緒に夕食を食べた。食卓では奏人に旅の通信時間を尋ね、リュキアの朝が日本の午後になることをもう一度確かめた。
帰るとき、澪は玄関まで見送った。
「毎朝一分は、やっぱり短いかも」
結菜が言う。
「向こうで話したいことがあったら、もっと話すよ」
「玲さんと過ごす時間もね」
「分かってる」
結菜は笑い、澪も笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
結菜が曲がり角を過ぎるまで見てから、澪は家の中へ戻った。
*
出発前夜。
玄関には、奏人と澪の旅行鞄が並んでいた。
翌朝早く、二人はリュキアへ発つ。
その横には、絵を入れた黒い輸送ケースが壁際に立ててある。
リビングの照明は落とされ、荷物の輪郭だけが薄く見えていた。
澪は寝る前に一度、すべてを確認する。
旅券。
端末。
衣類。
香り袋。
スケッチブック。
鉛筆。
何かを忘れているような気がした。
「パパ」
「何だ」
奏人は台所で水筒を乾かしている。
「忘れ物ない?」
「何を忘れたか分からないなら、確認しようがない」
「そうだけど」
「必要なものは入ってる」
「たぶん?」
「確認した」
奏人は水筒の蓋を閉じた。
「向こうで足りなければ買える。全部を持っていこうとするな」
澪は自分の鞄を開く。
上半分には、まだ空いた場所が残っている。
「本当に空けたままでいいの?」
「ああ」
「何も増えなかったら?」
「そのまま帰ってくればいい」
「もったいなくない?」
奏人は澪の隣へ来て、鞄の中を見る。
「空いていることにも意味はある」

「何の?」
「決めなくていいものを、決めずに置いておける」
澪は鞄を閉じた。
分類保留。
空けておく場所。
まだ何が入るか分からない場所。
それは少しだけ、裏返した絵に似ていた。
開かなかったから、何もなかったわけではない。
見えない側に、ずっと存在していた。
「眠れそうか?」
奏人が尋ねる。
「分からない」
「朝は早いぞ」
「分かってる」
澪は輸送ケースの前へ座った。
黒い表面に、玄関の照明が細く映っている。
「ママ、起きてるかな」
「向こうはまだ夕方だ。迎えの時間を確かめてるかもしれない」
「ママなら、もう確認してそう」
「玲だからな」
奏人の声に、小さな笑いが混じる。
澪はケースの留め具へ触れた。
開けない。
その約束は、今も変わらない。
「明日、この絵も飛行機に乗るんだね」
「そうだな」
「絵は外が見えないけど」
「荷物はだいたいそうだ」
「怖くないのかな」
「絵が?」
「うん」
奏人は少し考えた。
「澪が一緒なら大丈夫だろ」
澪は黒いケースを見る。
その中の絵は、何も知らない。
どこへ行くのか。
誰に見られるのか。
どんな光の下で開かれるのか。
それでも、澪と一緒に運ばれていく。
「おやすみ」
奏人が言った。
「おやすみ、パパ」
澪は立ち上がり、階段へ向かった。
途中で振り返る。
旅行鞄。
輸送ケース。
まだ空いている場所。
どれも、朝になるまで静かに待っている。
自室の窓からは、いつもの庭が見えた。
この景色を次に見るとき、自分はどんな匂いを持ち帰っているのだろう。
澪は鞄から白い香り袋を取り出してベッドへ入り、一度だけ口を開いた。
タイムとレモンバーム。
朝の窓。
奏人が焼いたパン。
日本に残る結菜。
知っているものの匂いが、暗い部屋へ静かに広がった。
澪は袋の口を閉じ、鞄の外側の収納部へ戻した。
ベッドへ入り、目を閉じる。
明日の朝には、まだ知らない空気の方へ向かう。
鞄の中には、帰ってきたときのための場所も、ちゃんと空いていた。


