日曜日のシャトル
目覚ましが鳴る少し前に、澪は目を覚ました。
カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。
昨日まで葉の上に残っていた雨粒は、もうほとんど消えていた。窓の外では、濡れた森の色だけが普段より少し濃く見える。
澪はベッドの中でしばらく天井を眺めた。
水の音は聞こえない。
白い髪の少女もいない。
夢を見ていたような気はしたが、目を覚ました瞬間に、ほとんど形を失ってしまった。
ただ、胸の奥には、どこかへ出かける前のような小さな高揚が残っていた。
枕元の端末を見る。
午前七時十二分。
待ち合わせまでは、まだ一時間以上ある。
澪は布団を抜け出し、窓を少し開けた。
雨上がりの匂いが、冷たい空気と一緒に部屋へ入ってくる。
遠くで鳥が鳴いていた。
森都市の日曜日は、平日の朝より音が少ない。
空中リニアの低い走行音も、通勤用モービルの流れも、まだまばらだった。
机の脇には、昨夜準備したバッグが置かれている。
帽子。
水筒。
虫よけ。
薄手の上着。
新しい手袋。
スケッチ端末。
澪は一つずつ確認した。
予定表の横には、じょうろとパンとスープの印が並んでいる。
パンとスープの印を消そうかと少し考えたが、結局そのままにした。
着替えてダイニングへ下りると、奏人はすでに起きていた。
キッチンでは、パンの焼ける匂いがしている。
「早いな」
奏人はフライパンから目を離さずに言った。
「普通」
「目覚ましより前に起きてただろ」
澪は冷蔵庫から水を取り出しながら、奏人の背中を見た。
「なんで分かるの」
「二階の床が鳴った」
「古い家みたいに言わないで」
「日曜の朝は静かだからな」
奏人は焼いた卵を皿へ移した。
食卓にはパンと卵、切った果物が用意されていた。
けれど今日は、食卓の中央に投影装置の光はない。
代わりに、澪の端末へ玲から短いメッセージが届いていた。
『水やり、楽しんできてね。ロッシュにもよろしく』
最後に、小さな葉の印が付いている。
澪はメッセージを一度読み、端末を伏せた。
「ママ、覚えてた」
「昨日話したからな」
「お父さんが?」
「少しだけ」
奏人は自分の席へ座った。
「ロッシュにもよろしく、だそうだ」
「見た」
「正式名称はロシュだけどな」
「ロッシュでいいの」
「本人の意向は」
「十年前に分類保留になった」
奏人はコーヒーを飲みかけたまま、わずかに笑った。
「便利な言葉だな」
澪はパンを一口かじった。
「お父さんも使えば」
「何に」
「分からないこと」
「お前のランチ目的率とか」
「それはもう終わった話」
「分類保留にしておく」
「半分違うって言ったでしょ」
「半分は当たりだ」
澪は返事の代わりに、果物を口へ運んだ。
奏人の笑いを含んだ視線が向けられている。
けれど、急かされる感じはしなかった。
今日は朝から、胸の奥が少し軽い。
食事を終えると、澪はバッグを肩に掛けた。
新しい手袋が入っていることを、もう一度確かめる。
「水筒は」
「入れた」
「端末は」
「入れた」
「帰りの連絡は」
「する」
「スープは」
澪は玄関で靴を履きながら振り返った。
「Depends」
奏人が片方の眉を上げる。
「何がだ」
「美味しさによる」
「二杯目の話か」
澪は答えず、玄関の扉を開けた。
「行ってきます」
「気をつけてな」
扉を閉める直前、奏人の声が追いかけてきた。
「三杯目は連絡しろ」
「食べないし!」
澪の声が、静かな家の中へ少し大きく響いた。
外へ出ると、空気は思っていたより冷たかった。
けれど、日差しはもう夏に近い。
濡れた歩道の一部が、朝の光を反射している。
澪はシャトル停留所へ向かって歩き始めた。
通り沿いの植栽では、自動散水機が葉の状態を確認していた。土の水分が十分だったためか、散水口は閉じたままだ。
パン店の前では、店主が小さな看板を出している。
澪と目が合うと、店主は手を上げた。
「おはよう、澪ちゃん。今日は早いね」
「おはようございます。グリーンオアシスに行くので」
「また水やり?」
「アルバイトです」
「ランチも?」
澪は一瞬だけ黙った。
なぜ大人は、みんな同じことを聞くのだろう。
「……半分です」
「何が半分か分からないけど、楽しんでおいで」
店主は笑いながら、店の中へ戻っていった。
停留所には、すでに数人が待っていた。
散歩用の杖を持った高齢の男性。
大きな買い物袋を抱えた女性。
旅行者らしい親子。
幼い男の子が、停留所の案内表示を見上げている。
表示には、日本語の下へ英語、その下へ二つの言語が順番に流れていた。
母親らしい女性が、端末と表示を交互に見ながら、少し困った顔をしている。
「Green Oasis?」
女性が小さくつぶやいた。
澪はバッグの肩紐を直しながら、案内表示を見た。
次に来るシャトルは、グリーンオアシスを経由する循環東線だった。
「Yes. This one goes to Green Oasis」
声をかけると、女性が振り返った。
「Oh, thank you. Same bus?」
「Same shuttle. I’m going there too」
澪が答えると、男の子がこちらを見た。
手には、動物の絵が描かれた小さな端末を持っている。
「Animals?」
男の子が尋ねた。
グリーンオアシスに動物園はない。
けれど、鳥や昆虫、小さな水生生物はたくさんいる。
「Small animals. Birds, fish……maybe frogs」
最後の言葉に、男の子の顔が明るくなった。
「Frogs!」
「Sometimes」
女性が笑った。
「He loves frogs」
「Me too……when they don’t jump at me」
女性が少し遅れて笑い、男の子は意味が分からないまま楽しそうに「Frogs」と繰り返した。
澪もつられて口元を緩めた。
知らない人に話しかけることに、特別な勇気が必要だとは思わなかった。
困っているように見えたから声をかけた。
話し始めたら、少し面白くなった。
それだけだった。
やがて、停留所の表示が淡く点滅した。
『循環東線が到着します』
日本語に続いて、英語の案内が流れる。
角を曲がって、小型の地域シャトルが姿を現した。
白い車体の側面には、緑色の細い線が描かれている。自動走行用のセンサーが朝の光を反射し、車体前面の表示が静かに明滅した。
扉が開く。
澪は親子を先に通し、そのあとに乗り込んだ。
車内には、木目を模した手すりと、植物繊維で作られた座席が並んでいる。
前方には車椅子やベビーカーを固定する空間があり、その横に路線図が浮かんでいた。
澪は窓際の席へ座った。
旅行者の親子は通路を挟んだ向かい側に座る。
男の子は窓へ顔を寄せ、外を流れる景色を待っている。
『扉を閉めます』
シャトルが静かに動き出した。
最初は住宅区を走る。
雨に洗われた集合住宅の壁。
屋上庭園。
早朝の運動をする人。
歩道をゆっくり進む配送ロボット。
停留所に停まるたびに、乗る人と降りる人が入れ替わった。
車内では、日本語、英語、澪には分からない言葉が小さく混ざっている。
案内表示も、乗客の登録言語に合わせて表示言語を変えていた。
けれど、誰かが話すたびに車内が騒がしくなるわけではない。
いくつもの言葉が、朝の生活音として静かに同居している。
シャトルが中央区を抜けると、建物の間隔が少しずつ広がり始めた。
高い建物が減り、窓の外に緑が増えていく。
管理農園の細長い畑。
雨水を溜める調整池。
太陽の方向に葉を向ける発電樹。
遠くには、森都市を囲む山の稜線が見えた。
澪は窓へ額を近づけた。
グリーンオアシスへ向かうこの区間が好きだった。
街が終わって森が始まるわけではない。
建物の間から植物が増え、道路の脇へ水路が現れ、人の暮らしと緑の境目が少しずつ分からなくなっていく。
昨日の夢で見た水路が、ふいに頭へ浮かんだ。
母の手。
水に触れた指。
木漏れ日の向こうにいた少女。
澪はバッグの上に置いた手を、わずかに握った。
窓の外を、細い水路がシャトルと並んで流れている。
その水面に、一瞬だけ白いものが映ったように見えた。
澪は身体を起こした。
けれど、そこにあったのは空を流れる雲だった。
「Frogs?」
向かい側の男の子が、窓の外を指さしていた。
調整池の縁に、緑色の小さな影が見える。
澪は目を凝らした。
「Maybe」
男の子は満足そうに頷いた。
やがて、車内表示に目的地が現れた。
『次は、グリーンオアシス正門前』
続いて、英語やいくつかの言語が流れる。
旅行者の女性が、澪の方を見た。
「Next?」
「Yes. We get off here」
澪は立ち上がり、バッグを肩へ掛けた。
シャトルが緩やかに速度を落とす。
木々の間から、草と花に覆われた低い屋根が見えてきた。
高木の外苑帯。
その奥に続く散歩道。
朝の光を受けて流れる水路。
入口の近くでは、色も形も違う何本もの旗が、風に小さく揺れていた。
シャトルが停止し、扉が開く。
外から、水と土と、焼きたてのパンの匂いが入り込んできた。
澪は親子と一緒に降りた。
「Thank you」
女性が言った。
「Have fun」
澪が答えると、男の子は大きな声で言った。
「Frogs!」
「Good luck」
親子は案内表示の方へ歩いていった。
澪は水脈庭へ続く道を見た。
入口の向こうで、誰かが大きく手を振っている。
結菜だった。
片方の肩に大きなバッグを掛け、もう片方の手には、小さなハーブ図鑑を持っている。
「澪ー! こっち!」
その少し後ろでは、丸い頭をした案内ロボットが静かにこちらを向いていた。
胸にある葉と道の印が、淡い緑色に灯る。
『おはようございます、青木澪さん』
十年分の記憶を確かめるように、ロシュは一拍置いた。
『本日も、ロッシュとお呼びになりますか』
澪は足を止めずに答えた。
「もちろん」
『承知しました』
ロッシュの胸の光が、少しだけ明るくなった。
『お帰りなさい、澪さん』
水路の音が、朝の緑の中を流れていた。



