受付のない受付
「受付までご案内します」
ロッシュのあとを追い、澪と結菜は水脈庭の中央通路を歩き始めた。
受付区画は、正門からそれほど離れていない。
けれど、そこへ向かう人の列はなかった。
入口を塞ぐ改札も、順番を待つための仕切りもない。来訪者たちは足を止めることなく、それぞれ散歩道や茶屋、足水庭の方へ流れていく。
初めて訪れたらしい人でさえ、端末をかざしたり、名前を書いたりはしていなかった。
「そういえば、受付ってもう終わってるんだよね」
結菜が、自分の手首に巻かれた細いウェアラブルを見た。
表示には、小さな緑色の葉が灯っている。
来訪確認済み。
水やり活動参加登録済み。
昼食権付与予定。
その下には、午前九時十分からの作業説明が表示されていた。
「シャトルを降りたところで」
澪も自分の手首を確かめた。
施設予約と本人の認証情報は、シャトルが正門前へ到着した時点ですでに照合されている。
本人が許可した情報だけが、車内の地域交通網からグリーンオアシスの来訪管理へ渡される。
水やりの参加登録。
必要な道具のサイズ。
食物アレルギーの有無。
緊急連絡先。
それらは澪が正門を通るよりも前に確認され、問題がなければ、ウェアラブルへ葉の印が返ってくる。
「受付に行くのに、受付は終わってる」
結菜が言った。
「変なの」
『受付区画の主な機能は、入場処理ではありません』
前を進むロッシュが答えた。
『施設案内、個別相談、経路提案、言語支援、活動変更、紛失物対応などを行います』
「つまり、困った人のところ?」
『困る前の方も利用されます』
「おすすめを聞きたい人とか?」
『はい』
ロッシュは胸の灯を明滅させた。
『また、予定を決めずに来訪された方へ、現在の混雑状況や興味に応じた過ごし方をご提案します』
「受付というより、相談所だね」
澪が言った。
『施設側では、案内港と呼ぶ職員もいます』
「港」
澪は少しだけ、その言葉が気に入った。
人が入ってきて、どこかへ向かう。
世界へ出ていく人もいれば、疲れて戻ってくる人もいる。
確かに、受付より港の方が、この場所には似合っている。
通路の先に、受付区画が見えてきた。
木の枝を広げたような大きな屋根の下に、いくつかの案内台が緩やかな円を描いて配置されている。
それぞれの台は腰ほどの高さしかなく、職員と来訪者を隔てる透明板も壁もない。
中央には、今日の施設全体を示す立体案内図が浮かんでいた。
水路の流れ。
人の多い場所。
空いている休憩区画。
現在開かれている活動。
風向きや木陰の移動まで、小さな光として表示されている。
それでも、案内図の前で立ち尽くしている人はいなかった。
必要な情報はそれぞれのウェアラブルへすでに届いている。
ここを訪れている人の多くは、画面を見るためではなく、人と話すために立ち寄っていた。
「マリさん、いる」
澪が言った。
円形の案内台の一つで、背の高い女性が、先ほどシャトルで一緒だった旅行者の母親と男の子に説明していた。
濃い茶色の髪を後ろで一つに束ね、胸元には葉と水路を組み合わせた案内係の印を付けている。
マリは空中に施設図を広げ、男の子と同じ高さになるよう、少し膝を曲げていた。
「The water garden is this way. If you’d like a quieter route, Roshu can guide you along the eastern path」
マリが地図の東側へ指を滑らせる。
人の流れが少ない散歩道が、淡い青色に変わった。
「It takes about fifteen minutes, but there are birds and small streams along the way」
男の子が、ロッシュを見た。
「Robot guide?」
「Yes. He can guide you in your preferred language」
マリはロッシュへ軽く手を向けた。

「He can also remember your son’s name and walking preferences for your next visit—but only if you choose to allow it」
母親が、自分のウェアラブルを見た。
「Can we choose what he remembers?」
「Of course. His name only, the route he liked, support information—or nothing after today. You can review or delete it anytime」
マリが案内図の一角へ触れると、記憶設定の選択肢が母親の端末へ送られた。
母親は男の子へ画面を見せ、二人で短く相談した。
やがて、名前と好きな場所だけを保存する設定が選ばれる。
ロッシュの胸に、小さな確認光が灯った。
ロッシュが英語へ切り替えた。
『記憶設定を受領しました。お名前を伺ってもよろしいですか』
男の子は少し緊張しながら、自分の名前を告げた。
『ありがとうございます。次回も同じ呼び方を使用してよろしいですか』
男の子が大きく頷く。
『承知しました。では、水辺の静かな道をご案内します』
ロッシュは澪たちへ一度身体を向けた。
『青木澪さん、小暮結菜さん。受付記録は完了しています。案内終了後、作業説明区画で合流します』
「行ってらっしゃい、ロッシュ」
澪が言った。
『ロシュです』
一拍置いてから、胸の光がわずかに揺れる。
『ただし、澪さんの個別呼称については、ロッシュで問題ありません』
旅行者の母親には、そのやり取りの意味は分からなかったらしい。
けれど男の子は、ロッシュがわずかに間を置いて答えたのを聞いて、楽しそうに笑った。
ロッシュは親子を連れ、東側の散歩道へ進んでいった。
その背中を見送りながら、結菜が言った。
「人気者だね、ロッシュ」
「ロシュです」
澪が真似をすると、結菜が笑った。
「澪が言うんだ」
親子を送り出したマリは、すぐに別の来訪者へ呼び止められた。
杖を持った高齢の男性が、今日はどの道が歩きやすいか尋ねている。
マリは男性のウェアラブルに表示された歩行支援設定を確認し、立体図の木陰が多い道を示した。
「西側は昨日の雨で少し滑りやすいです。今日は中央の緩斜路がいいと思います」
「いつものベンチは空いてる?」
「今は二つ空いています。十五分後なら、ベンチも木陰に入りますよ」
「じゃあ、ゆっくり行こうかな」
「途中で休みたくなったら、路守を呼んでくださいね」
男性が歩き出すと、今度は小さな子どもを連れた父親が、足水庭の着替え場所を尋ねた。
その向こうでは、医療区画へ向かう人が車椅子モービルの経路変更を相談している。
マリは日本語から英語へ切り替え、また日本語へ戻りながら、途切れることなく人を送り出していた。
忙しそうだった。
けれど、手続きを処理するために急いでいるようには見えない。
一人ひとりが次にどこへ向かえばよいのか、迷わず一歩を踏み出せるように、道を少しだけ整えている。
結菜が小声で言った。
「マリさん、ずっと喋ってる」
「いつもあんな感じ」
「疲れないのかな」
「人と話すと元気になるって言ってた」
「私と同じ種類かもしれない」
「人類全般が知り合い候補の人?」
「そう」
二人が案内台の少し手前で待っていると、マリがようやくこちらへ顔を向けた。
澪を見つけた瞬間、その表情が明るくなる。
「Good morning, Mio!」
「Good morning, Mari」
澪も自然に英語で返した。
「You’re early today」
「Four minutes early」
「Very precise」
「Yuuna was eight minutes early」
澪が結菜を指す。
結菜は急に話題を振られ、慌てて姿勢を正した。
「Bonjour」
マリが少し目を丸くした。
それから楽しそうに笑う。
「Bonjour, Yuuna. French today?」
結菜は一瞬考えたあと、自信ありげに答えた。
「Cuisine only」
「料理だけ?」
澪が日本語で聞く。
「そこは通じたからいいの」
「フランス語じゃないし」
マリは笑いながら、二人の手首へ目を落とした。
「水やりの受付は、もう終わってるわよ。二人とも認証済み。手袋のサイズも更新されてる」
澪のウェアラブルに、新しい手袋のサイズが表示されている。
昨日、奏人から受け取ったものを試着したあと、端末が自動で装着状態を読み取っていたらしい。
「昨日の夜に変わった?」
マリが尋ねた。
「前のが小さくなってたから。お父さんが予備を出してくれた」
「成長したね」
「手だけ」
「そのうち全部追いつくわよ」
マリは澪の頭の上へ手を伸ばしかけた。
しかし、十三歳の澪が少し身構えたのを見て、その手を途中で止め、代わりに肩を軽く叩いた。
「今日は香草区画と低木庭南側ね」
「うん」
「南側は昨日、給水管の調整をしたばかりだから、土の湿り方をよく見て。機械の測定値と、人が触った感じが違うこともあるから」
結菜が目を輝かせた。
「香草区画、今日のスープに使うハーブもありますか」
「あるわよ。全部ではないけど、タイムとローリエは今朝摘んだものを使う予定」
「ローリエ!」
「お昼の前に厨房を覗いたら、マルセルが見せてくれるかも」
「予約は十二時四十分です」
結菜は即座に答えた。
マリが澪を見る。
「準備がいいね」
「昨日から楽しみにしてたから」
「澪も厨房見学?」
「同伴者で」
「絵を描くなら、衛生区画の外からね。厨房の人の手元は描いてもいいけど、顔を描くときは一声かけて」
「分かってる」
マリは頷き、二人の予定を案内図へ呼び出した。
受付をするためではない。
二人が今日の流れを、自分の目でもう一度確かめるためだった。
「作業説明は九時十分から。あと七分ね」
水やり集合区画までの道が、緑色に灯る。
「ここから歩いて三分。途中の橋は、雨上がりで少し滑りやすいから気をつけて」
「ロッシュは?」
澪が尋ねた。
「さっきの親子を東の水辺まで案内したあと、説明区画へ戻る予定。間に合わなければ、別の路守機が来るわ」
「別のロッシュ?」
結菜が聞く。
「機体は同じ型だけど、澪にとってのロッシュは、あの機体と中央記憶に続いている関係でしょう?」
マリは少しだけ考えてから言った。
「だから、まったく同じではないわね」
澪は、ロッシュが消えていった東の道を見た。
中央サーバーには、十年前からの自分との記録が残っている。
けれど今、あの道を歩いている機体が見ている光や、聞いている男の子の声は、今この瞬間にしかない。
保存されるもの。
その場にしか残らないもの。
その違いを考えかけたとき、マリが澪の顔を覗き込んだ。
「Mio?」
「なに?」
「また何か考えてた?」
「少しだけ」
「Good thinking or difficult thinking?」
澪は答えを選ぶように、わずかに首を傾けた。
「Half and half」
「半分ずつ?」
「半分当たりで、半分違う」
マリは意味を尋ねず、楽しそうに笑った。
「それなら、急いで答えを決めなくてもいいね」
次の来訪者が案内台へ近づいてきた。
マリはそちらへ目を向ける。
「行ってらっしゃい、二人とも。今日の水は、昨日と少し違うから」
澪が立ち止まった。
「違う?」
「雨の翌日だからね」
マリは何でもないことのように答えた。
「水量も、土の匂いも、光の色も。毎日同じ場所だけど、毎日同じではないでしょう?」
その言葉に、澪は水路の方を見た。
朝の光が、流れる水の表面で細かく揺れている。
昨日の夢で見た光と、少し似ていた。
「行こう、澪」
結菜が澪の腕を軽く引いた。
「遅れると、初日が始まらない」
「毎回初日ってやつ?」
「今日の水やりは、今日しかないからね」
「マリさんの言葉、もう使ってる」
「良い言葉はすぐ使います」
二人は案内台を離れた。
後ろでは、マリが新しい来訪者へ英語で声をかけている。
その声に、別の言語の返事が重なった。
人々は受付で足を止める必要がない。
それぞれの目的地へ流れながら、必要なときだけ誰かと言葉を交わす。
グリーンオアシスの入口には、人を止める改札も、順番を待つ列もなかった。
けれど、誰も放り出されてはいなかった。
澪と結菜は、水やり集合区画を示す緑色の道を並んで歩き始めた。


