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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 16|描けなかったページ

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目次

描けなかったページ

玲の立体像が消えたあとも、リビング中央の投影面には三本の細い補助線が残っていた。

聖泉跡の基壇。

西側斜面の崩落層。

地下へ続く閉鎖通路の入口付近。

イデアが三地点の碑面方位をもとに地形図上へ引いた線は、推定された地下水脈の流れと重なりながら、既知の遺構中心ではなく、西へずれた建築軸の先で交わっている。

「通信を終了しました」

イデアの声が響く。

「表示、どうしますか」

奏人はしばらく交点を見ていたが、

「消してくれ」

と答えた。

「記録は?」

「保留のまま保存」

「了解しました。分類保留を継続します」

一本ずつ、補助線が薄くなる。

最後まで残った交点も、窓から差し込む夕方の光へ溶けるように消えた。

急に、部屋が静かになった。

冷房の低い音。

壁際の時計。

氷が少なくなったグラスの中で、水滴が滑る音。

遠いリュキアの遺構も、十年前の記録も投影面から消え、テーブルの上には飲みかけの冷たいお茶と、使い終わった冷却布だけが残った。

結菜が、背もたれへ身体を預ける。

「……なんか、今になって疲れてきた」

「今まで疲れてなかったの?」

澪が尋ねる。

「疲れてたけど、頭が勝手に走ってた」

結菜は両腕を前へ伸ばした。

朝からじょうろを持っていたせいか、腕が重そうだった。

「明日、筋肉痛になるかも」

「私も」

澪は右手を握った。

掌の中央に、持ち手の感触がまだ残っている。

指を曲げると、皮膚の下がわずかに熱を持っていた。

水面に白い少女のような姿を見たのも、この手で水を運んだのも同じ日だった。

けれど今は、その姿よりも、濡れた土や重いじょうろの方が近く感じられた。

奏人が二人のグラスへ水を足す。

「結菜ちゃんの家には連絡してある。もう少し休んでから帰ればいい」

「ありがとうございます」

結菜はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。

それから澪を見る。

何かを言いかけて、いったん口を閉じた。

「何?」

澪が尋ねる。

「いや」

「言いかけたじゃん」

「白い髪の子のことなんだけど」

澪の指が止まった。

奏人は何も言わず、空になった冷却布の容器を片づけている。

「私、あの子を見たことより」

結菜は言葉を探すように、グラスの水面を見た。

「澪が名前を呼んだときの方が、ちょっと気になってる」

「私が?」

「うん」

結菜は頷いた。

「初めて見た人を呼んだ感じじゃなかった」

「どういう感じだった?」

「知ってる人を見つけたみたいだった」

澪は答えなかった。

知っているような気がする。

そう言われても、顔も声も思い出せない。

三歳の自分がどんな気持ちでその名を口にしたのかも分からない。

けれど、セフィリアという音だけは、知らない言葉を覚えたときのようには感じられなかった。

初めから身体のどこかにあり、今日になって名前の形へ戻ったような――。

「でもさ」

結菜が明るい声に戻る。

「知ってる気がするのと、本当に知ってるのは別だからね」

澪は顔を上げた。

「玲さんも言ってたじゃん。無理に思い出さなくていいって」

「うん」

「明日学校で居眠りしたら、その子のせいじゃなくて水やりのせいだから」

「結菜も寝そう」

「私は料理の勉強で疲れたことにする」

「ほとんど見てただけでしょ」

「香りを覚えるのも勉強です」

結菜は胸を張ったが、すぐに欠伸をした。

その顔がおかしくて、澪は少し笑った。

結菜も笑った。

水面に白い姿を見たあとでも、二人は明日の学校の話をして、筋肉痛を心配し、スープのおかわりを一杯で止めたことを残念がっていた。

それが澪には、少しだけありがたかった。

玄関を出ると、昼間の熱がまだ道路に残っていた。

それでも風には、夕方の涼しさが混じり始めている。

結菜の家は澪の家からもう少し先だった。

一人で帰れる距離だったが、澪は門の外まで見送りに出た。

「じゃあ、また明日」

結菜が言う。

「うん」

数歩進んだところで、結菜が振り返った。

「澪」

「なに?」

「絵、描く?」

何の絵かは聞かなくても分かった。

澪は少し考えた。

「まだ分からない」

「そっか」

結菜はそれ以上勧めなかった。

「描いたら見せて」

「描けたらね」

「描けなくても見せて」

「描けなかったら何を見せるの」

「描けなかったページ」

澪は眉を寄せた。

結菜は笑いながら手を振り、夕暮れの道を歩いていった。

その背中が曲がり角の向こうへ消えるまで、澪は門の前に立っていた。

家へ戻ると、台所から包丁の音が聞こえた。

奏人が夕食の野菜を切っている。

一定の間隔で、刃がまな板へ当たっていた。

澪はリビングへ戻り、ソファの横に置いていた鞄からスケッチブックを取り出した。

開いたのは白いページだった。

鉛筆を持つ。

最初に描こうとしたのは少女の髪だった。

けれど線を引く直前で、手が止まった。

顔が思い出せないわけではない。

水面の向こうに立つ姿も、光を受けた白い髪も覚えている。

それなのに、描いてしまうと何かを決めてしまう気がした。

誰だったのか。

どこにいたのか。

こちらを見ていたのか。

まだ決めてはいけないものまで、一本の線で囲ってしまいそうだった。

「描けないか」

台所から奏人の声がした。

澪は少し驚いた。

「見てたの?」

「見てはいない。音がしなかったから」

奏人は包丁を置き、布巾で手を拭いた。

「鉛筆を持つと、いつも少し音がするだろ」

澪は鉛筆の先を見る。

「描いた方がいい?」

「誰が?」

「記録として」

奏人はすぐには答えなかった。

冷蔵庫からハーブの入った容器を取り出し、蓋を開ける。

グリーンオアシスから持ち帰ったタイムとレモンバームの香りが、台所から流れてきた。

「観測記録なら、ロッシュとイデアが残している」

奏人は言った。

「澪の絵まで、調査記録にしなくていい」

「じゃあ、何のために描くの?」

「それを決めるのは、俺じゃないだろ」

奏人は葉を一枚取り、傷んだ端を指で摘んだ。

「描きたくなったら描けばいい。描きたくないなら、今日は描かなくていい」

澪は白いページを見つめた。

「お父さんは、怖くないの?」

「何が?」

「三歳の私の声と、遠くの三つの碑文から出てきた音の候補が似てること」

奏人は少し考えた。

「怖くないと言ったら嘘になるな」

澪は顔を上げた。

父がそう答えるとは思っていなかった。

「ただ、分からないことを急いで分かる形にする方が、俺は怖い」

奏人は容器を閉じた。

「似ているという解析結果はある。分からないことは分からない。その二つを一緒にしなければ、今はそれでいい」

澪は白いページへ鉛筆を置いた。

少女ではなく、丸い器を描き始める。

昼に食べたスープの器。

その隣に、千切ったパンを一つ。

水面も白い髪も描かなかった。

ただ、器の縁に落ちていた光と、その下にあった薄い影を線にした。

その夜。

澪が入浴を終えて自室へ戻ったあと、奏人はリビングの照明を一段暗くした。

テーブルの上には、夕食に使ったハーブの香りがまだ残っている。

「イデア」

「はい」

「玲へ接続。個人回線」

数秒後、リビングの端に淡い立体像が立ち上がった。

玲は調査用の帽子を脱ぎ、岩陰の簡易休憩所に座っていた。

昼前よりも頬に土がついている。

「澪は?」

玲が最初に尋ねた。

「部屋に戻った。結菜ちゃんも無事に帰った」

「そう」

玲は息を吐いた。

その顔から、まず母親としての緊張が少し抜けた。

「午後の測量は?」

奏人が尋ねる。

「三地点の碑面方位をもう一度測ったあと、補助線と推定水脈が収束した地点を、安全区域から調べた。でも、まだ確定できるものはないわ」

玲は手元の端末を見た。

「地表には、入口も人工構造の痕跡もない。地中探査では、交点の下にある含水層だけが、周囲と少し違う反応を示している」

「掘るのか?」

「いいえ。少なくとも今は」

玲は即座に答えた。

「セフィリアに近い推定音候補が示されたからといって、澪を理由に調査手順を変えるつもりはないわ」

奏人は頷いた。

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

「旅行のこと」

玲が言った。

奏人は廊下の方を見る。

澪の部屋から音はしない。

「予定どおりでいいと思う」

奏人は声を落とした。

「今すぐ話せば、今日の出来事が理由で連れていくように見える」

「私もそう思う」

玲は膝の上で両手を組んだ。

「澪に来てほしいのは、あの子が何かを見たからじゃない」

「玲に会わせるためだ」

「ええ」

立体像の玲には影がなかった。

それでも、その声には疲れがあり、離れている時間の重さがあった。

「私が会いたいから」

玲は小さく笑った。

「それが最初の理由だったもの」

奏人も笑った。

「じゃあ、澪へ話すのは一週間後にしよう」

「驚くかしら」

「たぶん、驚く前に黙る」

「澪らしいわね」

「そのあと、荷物を詰め始める」

「それも澪らしい」

二人はしばらく、遺構でも碑文でもない娘の話をした。

旅行鞄は以前のものが使えるか。

現地の日中の暑さ。

澪が飛行機の中で読む本。

玲が休みを取れる日。

セフィリアという名前は、その間、一度も出なかった。

分からないものを無理に遠ざけるのではなく、家族の時間をその名前だけに奪わせないために。

やがて玲が現地の調査へ戻り、通信が切れた。

奏人は一人になったリビングで、暗くなった窓を見た。

窓ガラスには、テーブルと椅子と、自分の姿が映っている。

その足元には、照明を受けた影があった。

奏人はしばらくそれを見てから、澪が閉じ忘れていたスケッチブックを静かに閉じた。

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