第三話 夕方の準備
夕方になるころには、雨を残していた雲もほとんど消えていた。
窓の外では、濡れた葉が傾き始めた光を返している。昼間より少し赤みを帯びた光が、澪の部屋の床を細長く横切っていた。
澪はその光の中に、小さな布製のバッグを広げていた。
帽子。
水筒。
携帯用の虫よけ。
薄手の上着。
スケッチ端末。
予備の充電板。
明日の天気と気温を確認しながら、ひとつずつバッグへ入れていく。
最後に、水やり用の手袋を両手にはめた。
指を奥まで入れると、縫い目が皮膚へ食い込んだ。手を握ろうとしても、うまく曲がらない。
澪は何度か指を開いたり閉じたりしたあと、手袋を外した。
「小さい……」
去年までは普通に使えていたはずだった。
手袋を片手に持ち、廊下へ出る。
書斎の扉は半分ほど開いていた。
奏人は机に向かい、宙に浮かべた二枚の地図を見比べている。
一枚には現在の海岸線と交通網。もう一枚には、色の薄れた古い地形と、玲が調査している遺構周辺の図面が表示されていた。
朝、玲が話していた軸線のずれも、細い赤線で記されている。
澪は扉の縁を指先で二度叩いた。
奏人は地図から目を離さないまま言った。
「どうした」
「明日、朝から出かけるから」
「どこに」
「グリーンオアシス」
奏人がようやく振り返った。
「また行くのか」
「またって何」
「この前も行ってなかったか」
「二週間前」
「十分最近だな」
「お父さんの最近は長すぎる」
澪が手袋を持ち上げると、奏人はそれを一目見て、椅子の背へ身体を預けた。
「水やりか」
「アルバイト」
澪は少しだけ強調した。
「ちゃんと働くの」
「ランチ目当てだな」
奏人の返事は早かった。
「違うし」
「明日のランチは何だ」
澪は手袋の指先を引っ張りながら、考えるより先に答えた。
「Herb soup and bread」
答えた声が、自分でも分かるほど少しだけ軽かった。
短い沈黙が落ちる。
奏人が片方の眉を上げた。
「急に国際的になったな」
澪は、自分が英語で答えたことにそこでようやく気づいた。
「……ハーブスープとパン」
「メニューだけは英語で完璧だな」
「そこじゃないし」
「やっぱりランチ目当てだな」
「Half right」
奏人の口元が、わずかに緩んだ。
「半分は当たりなのか」
澪は視線を横へそらした。
「……半分違う」
「同じことじゃないのか」
「違う。水やりもちゃんとするし、ロッシュにも会うし、結菜とも約束してるし」
「それで、スープも食べる」
「働いた人の分だから」
「パンも付く」
「付くけど」
「おかわりは」
「それは……あるかもしれない」
奏人が小さく笑った。
「かなりランチ寄りだな」
「半分だけ!」
澪の声が、静かな書斎へ少し大きく響いた。
奏人は笑いを残したまま、澪が持っている手袋を指さした。
「それ、小さくなったんじゃないか」
「やっぱり分かる?」
「指が曲がってる」
澪は自分の手元を見た。
確かに、手袋を外したあとも、指を少し曲げたまま持っている。
「物置に予備があったはずだ」
奏人は机の地図を閉じ、椅子から立ち上がった。
澪もその後ろについていく。
廊下の収納棚には、園芸用品や工具が用途ごとに分けて収められていた。
奏人は上段から透明なケースを下ろした。
中には軍手、剪定用の薄い手袋、折り畳み式の帽子、古い土壌センサーなどが入っている。
「これならどうだ」
まだ袋に入ったままの手袋を、奏人が差し出した。
廊下へ差し込む夕方の光が、奏人の指と手袋の上に、くっきりと影を落としていた。

澪はそれを受け取り、両手にはめてみた。
指先に少しだけ余裕がある。手を握っても、今度は縫い目が食い込まない。
「ちょうどいい」
「持っていけ」
「ありがとう」
奏人は空になった包装を小さく畳んだ。
「明日は何時に出る」
「八時半くらい」
「九時に待ち合わせか」
「水脈庭の入口」
「結菜と?」
「うん」
澪は新しい手袋を外し、バッグへ入れた。
奏人がケースを棚へ戻しながら言った。
「今日はずいぶん英語が自然に出たな」
「この前、受付のマリさんと話してたから、たぶん混ざってるだけ」
「マリさんとは英語で話すのか」
「向こうが日本語で、私が英語になるときもある」
「会話として成立してるのか、それ」
「だいたい分かるから」
澪にとっては、それほど不思議なことではなかった。
マリはグリーンオアシスの受付にいる、海外出身の女性だった。
話す日本語はとても自然なのに、澪が英語で返すと、そのまま英語へ切り替わる。途中で単語が出なくなれば、マリが日本語で補い、澪が絵や身振りで続きを返す。
どちらの言葉で始めたのか、話し終えるころには分からなくなっていることも多かった。
グリーンオアシスでは、日本語の途中に英語が入り、その隣でまた別の言葉が聞こえてくる。
誰かが言葉を間違えれば、身振りや絵で補う。
水や土、料理の匂いが、言葉より先に意味を伝えることもある。
少しずれていても、話が通じないとは限らなかった。
「結菜は?」
奏人が尋ねた。
「明日は料理区画にも寄りたいって」
「水やりのあとに?」
「ハーブの状態を見たいらしい。スープに何を使うかも聞くって」
「見学か」
「本人は研究って言ってる」
「十三歳の料理研究家か」
「シェフ志望だから」
結菜は、料理のことになると急に真剣になる。
普段は人懐っこくて話題が次々に変わるのに、厨房へ入ると、手順や香りを細かく観察する。
最近はグリーンオアシスのフランス出身の調理スタッフから、料理用語を教わっていた。
日常会話より先に、ハーブやソースの名前ばかり増えているらしい。
「フランス語も勉強してるんだったな」
奏人が言った。
「少しだけ。料理の言葉ばっかりだけど」
「英語とフランス語で、明日は国際会議か」
「水やりとランチ」
「やっぱりランチが入る」
「そこは大事だから」
奏人は畳んだ包装を分別箱へ入れた。
「送っていこうか」
澪は少し考えた。
グリーンオアシスまでは地域シャトルで一本だった。停留所から水脈庭の入口までも遠くない。
「大丈夫。一人で行ける」
「そうか」
奏人は、それ以上は勧めなかった。
「帰りは」
「たぶん三時くらい」
「遅くなるなら連絡しろ」
「分かってる」
「スープを三杯食べるなら連絡しろ」
「食べないし」
「二杯なら」
「決めてない」
「ランチ目当ての答えだな」
「Half right」
「また半分当たった」
「半分違う」
「違う方の半分は何なんだ」
澪はすぐには答えなかった。
新しい手袋の縫い目を、親指で一度だけなぞる。
水をやること。
ロッシュに会うこと。
結菜と話すこと。
元巨匠が来ていたら、また絵を見てもらうこと。
昼の夢で見た水路が、今も同じように流れているか確かめること。
そして、水の向こうに立っていた少女のこと。
一度口を開きかけたが、どこから話せばいいのか分からず、澪は小さく息を吐いた。
「いろいろ」
奏人は一瞬だけ、澪の顔を見た。
何があったのかと尋ねることも、理由を細かく説明させることもしなかった。
ただ、いつもの調子で言った。
「まあ、忘れ物だけはするな」
「お父さんじゃないし」
「この前、水筒を玄関に置いていったのは誰だ」
「……去年の話でしょ」
「俺の最近は長いからな」
澪は思わず笑った。
「そこにつなげるんだ」
新しい手袋の入ったバッグを持ち、自分の部屋へ戻る。
机の上に置いたスケッチ端末が、小さく振動した。
結菜からのメッセージだった。
『明日、香草区画も見たい。厨房の人がbouquet garni教えてくれるって』
その下に、葉と鍋の絵文字が並んでいる。
澪は意味を調べようとして、やめた。
明日、本人に聞けばいい。
『遅刻しないでね、chef』
そう返すと、すぐに返信が届いた。
『Oui, artist』
澪は画面を見つめ、少しだけ笑った。
明日の予定表を開く。
午前九時。
グリーンオアシス。
水やりアルバイト。
予定の横に、じょうろの印を置く。
少し考えてから、その隣へパンとスープの印も追加した。
どちらが本当の目的なのか。
たぶん、奏人の言った通りだった。
半分は当たりで、半分は違う。
けれど、その二つをきれいに分ける必要もないような気がした。


