十年前の声
読書天幕は、林の奥に張り出すように設けられていた。
薄い布地の屋根を透かして、午後の光がやわらかく落ちている。
澪と結菜は、並んで腰を下ろしていた。
テーブルの上には、冷たいハーブ水。
けれど澪は、さっきからほとんど口をつけていない。
「あと何分?」
結菜が聞いた。
澪はウェアラブルを確認する。
「七分」
「時間が遅い」
「さっき早く見たいって言ってたもんね」
「澪もでしょ」
「……うん」
否定はしなかった。
十年前。
三歳だった自分。
水路の向こうにいた、白い髪の少女。
そして、なぜか知っていた名前。
セフィリア。
本当に、そんなことがあったのか。
記憶は残っているのか。
それとも――。
澪はハーブ水をひと口飲んだ。
風が天幕の布を揺らした。
その音を聞いているうちに、少しだけ時間が進んだ気がした。
やがて、林の向こうから小さな駆動音が聞こえてきた。
「あ」
結菜が先に気づいた。
ロッシュが、遊歩道をこちらへ向かってくる。
「靴、見つかった?」
澪が聞く。
『はい。足水庭の乾燥棚に置かれていました』
「よかった」
『青木澪さん。十年前の初回来訪記録について、照合が完了しました』
澪の表情が変わった。
「残ってた?」
『一部、残存しています』
ロッシュは二人の前で停止した。
『対象記録は、青木澪さんが三歳二か月時のものです。本人による記録閲覧の選択が可能です』
「選択?」
『はい』
ロッシュの表示面に、三つの項目が現れた。
記録を見る。
見ずに保存を続ける。
削除する。
結菜が少し驚いた顔をした。
「消せるんだ」
『本人に関する長期記録については、一定年齢以降、本人が保存・閲覧・削除を選択できます』
澪は表示を見つめた。
十年前の自分。
自分自身ですら、ほとんど覚えていない時間。
それでも、それは自分の記録だった。
「見る」
『確認しました』
ロッシュの表示が切り替わる。
映像は短かった。
幼い澪が、水路の近くに立っている。
今よりずっと小さい。
髪も短い。
少し離れた場所から、父――奏人の声が聞こえた。
『澪、そっちは滑るよ』
三歳の澪は返事をしない。
水路の向こうを見ている。
『澪?』
幼い澪が、指を差した。
『ひと』
奏人の声が少し近づく。
『誰かいる?』
澪は水路の向こうを見たまま、小さく言った。
『セフィリア』
現在の澪の呼吸が止まった。
結菜も何も言わなかった。
映像の中で奏人が問い返す。
『セフィリア?』
幼い澪は、もう一度だけ言った。
『うん。セフィリア』
そこで記録は終わった。
天幕の中に、風の音だけが残った。
「……言ってる」
結菜が小さく言った。
澪は画面を見たまま、うなずいた。
夢の中で聞いた名前。
今日、突然思い出した名前。
それを三歳の自分が、確かに口にしていた。
「ロッシュ」
『はい』
「このとき、私が見てたものは?」
『映像記録上、水路対岸に人物は確認できません』
澪は眉を寄せた。
「映ってない?」
『はい』
結菜が画面を覗き込む。
「じゃあ、三歳の澪にだけ見えてた?」
『判断できません』
ロッシュは少し間を置いた。
『ただし、該当時刻の映像記録には、通常と異なる光学情報が含まれています』
「光学情報?」
映像が巻き戻された。
幼い澪が「セフィリア」と口にする少し前。
水路の表面。
一瞬だけ、光が揺れている。
ただの反射にも見える。
けれど、その揺れ方だけが周囲と違っていた。
『反射位相が〇・八秒間、周辺光源と一致していません』
「別の場所の光?」
結菜が聞いた。
『その可能性があります』
澪は、水面の小さな光を見つめた。
違う場所の光。
違う時間の光。
そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
「この記録、どうして残ってたの?」
澪が聞いた。
『当時、異常記録として自動削除対象から除外されています』
「異常記録?」
『分類不能の観測情報を含む記録です』
ロッシュの表示に、古い判定ログが現れた。
判断:削除しない。
意味づけには、まだ早い。
澪は、その文章をじっと見た。
「これ、ロッシュが決めたの?」
『当時の個体判断規則によるものです』
「誰が、その規則を作ったの?」
わずかな間。
『初期設計記録の一部は、現在の施設記録には保存されていません』
そしてロッシュは続けた。
『ただし、設計協力者一覧に青木奏人さんの記録があります』
「パパ?」
結菜が澪を見る。
澪も驚いていた。
父が、ロッシュの初期設計に関わっていた。
それは聞いたことがあった気もする。
けれど、こんなところにつながっているとは思わなかった。
そのときだった。
読書天幕の外。
木々の向こうで、水面が強く光った。
澪が振り向く。
風が止まった。
一瞬だけ。
水路の向こうに、誰かが立っていた。
白く淡い髪。
細い肩。
澪より少し年上に見える少女。
澪には、同じ少女だと思えた。
「……セフィリア」
声が漏れた。

隣で、結菜が息を呑んだ。
「澪」
「見える?」
「うん」
二人が立ち上がる。
少女は、水の向こうからこちらを見ていた。
表情はよく見えない。
けれど、確かにそこにいる。
澪だけが見た夢の中の少女ではない。
少なくとも、今ここで澪だけに見えているものではない。
「ロッシュ」
澪が呼んだ。
『記録中です』
「映ってる?」
数秒。
『人物像としての確定はできません』
「でも?」
『光学異常を検出しています』
水面が揺れた。
少女の輪郭も一緒に崩れる。
そして次の瞬間には、もう誰もいなかった。
結菜が、しばらく水路を見つめていた。
「……いたよね」
「うん」
「私も見た」
「うん」
澪は、それしか言えなかった。
ロッシュの表示面に、新しい記録が追加されていく。
現在時刻。
二名による同時観測。
水面反射異常。
人物様輪郭。
十年前の記録との照合。
そして最後に、
類似度――九六・四パーセント。
「同じ?」
澪が聞いた。
『高い類似性があります。ただし、同一であるとは断定できません』
澪は、その答えを聞いて少しだけ安心した。
なぜ安心したのかは、自分でも分からなかった。
結菜が椅子に座り直した。
「なんかさ」
「うん」
「記録って、変だね」
「どういうこと?」
「映ってないのに、いたかもしれないものがある」
澪は黙って聞いた。
「記録されてないものが、全部なかったことになるなら」
結菜は天幕の外を見た。
「今日の風も、ほとんど残らないでしょ」
風が戻ってきた。
葉が揺れた。
水面に光が散った。
澪は、その景色を見ていた。
記録にないもの。
描かれていない光。
名前を持たなかった感情。
残らなかったから、存在しなかったとは限らない。
ロッシュが静かに告げた。
『今回の観測記録を保存しますか』
澪は少し考えた。
「保存する」
『確認しました』
新しい記録が確定する。
次回同期時、中央記憶へ送信。
澪はもう一度、水路の向こうを見た。
誰もいない。
けれど、さっきまで誰かがいた場所だけが、少し違って見えた。
十年前の声は、消えていなかった。
そして今日。
その声に、もう一人の記憶が重なった。


