同じ光、違う影
月曜の朝、澪は通学鞄を右肩へ掛けて、すぐに左へ替えた。
腕の奥が重い。
昨日、じょうろを持ち上げるたびに使っていた場所が、遅れて自分の存在を知らせている。
玄関を出ると、夜の間に少しだけ雨が降ったらしく、道路の端がまだ濡れていた。日向はもう乾き始め、低い植え込みから湿った土の匂いが上がっている。
門を閉めたところで、通りの向こうから結菜が歩いてきた。
結菜も澪を見つけて手を上げたが、肩より上まで上げたところで顔をしかめた。
「痛っ」
「筋肉痛?」
「澪も?」
澪は右腕を少し曲げてみせた。
「ここ」
「同じところだ」
結菜は安心したように笑った。
「よかった。私だけだったら、水のやり方が下手だったことになる」
「一緒に下手だった可能性もあるけど」
「それは考えないことにする」
二人は並んで学校へ向かった。
いつもの通学路だった。
住宅区画を抜け、小さな公園の横を通り、低い水路に沿って歩く。頭上では街路樹の葉が朝の光を細かく揺らし、通勤用の小型シャトルが音もなく二人を追い越していった。

結菜は昨日の水脈茶屋の話を始めた。
今度はスープを二杯おかわりしたいこと。 料理区画で実際に手伝ってみたいこと。 ロッシュが、保存してほしくない冗談まで律儀に確認してきたこと。
澪も相づちを打っていたが、水路へ差しかかったところで、会話が途切れた。
昨日の足水庭よりずっと細く、浅い水路だった。
それでも朝日が水面に当たり、白い光が揺れている。
結菜も同じものを見たらしい。
少し歩調が遅くなった。
「あの子さ」
結菜が言った。
澪は水面から目を上げなかった。
「うん」
「昨日の白い髪の子」
その呼び方だけで、昨日の光景が近くなる。
冷たい水の音。 白い髪。 名前になる前から知っていたような感覚。
結菜はしばらく黙ってから尋ねた。
「あの子、こっち見てなかったよね?」
澪は顔を上げた。
「見てたと思う」
結菜が足を止めた。
澪も二歩ほど先で止まる。
「見てた?」
「そう見えた」
「澪の方を?」
「たぶん」
結菜は昨日の景色を探すように、目を細めた。
「私には、横を向いてるように見えた」
「横?」
「水の流れてくる方。少し下を向いてたと思う」
澪の記憶では、そうではなかった。
少女のような姿は水路の向こうに立ち、こちらを向いていたように見えた。
目の色までは思い出せない。 表情も分からない。
それでも、自分へ視線が届いたような感覚だけは残っている。
「私と目が合った気がした」
澪が言うと、結菜は驚くより先に考え込んだ。
「じゃあ、立ってた場所は?」
「水の向こう」
「どのへん?」
結菜は水路の反対側を指した。
「私は、大きい石の左側にいたと思った。木の影がかかってたところ」
「石の右側じゃなかった?」
「右?」
「水面に光が集まってたところ」
二人は黙った。
昨日、同じ場所で、同じ時刻に、白い少女のような姿を見た。
少なくとも二人とも、そう思っていた。
「髪は?」
結菜が自分の肩甲骨のあたりへ手を当てる。
「これくらいだったよね」
澪は首を振りかけて、やめた。
澪に見えた髪には、はっきりした長さがなかった。
腰より下まで伸びていたようにも、光の中へそのまま続いていたようにも思える。
「もっと長かったと思う」
「腰くらい?」
「分からない。途中から水の光と混ざってた」
「服は白?」
その問いに、澪は答えられなかった。
澪には、白い少女のように見えていた。
けれど、何が白かったのだろう。
髪は白かったように思う。 肌にも光が当たっていた。
服を見た記憶だけが、薄く抜け落ちている。
「結菜は覚えてる?」
「薄い色の服。袖があったと思う。たぶん」
結菜の声にも、少しずつ自信がなくなっていった。
朝の通学路を、自転車に乗った上級生が通り過ぎる。二人は道の端へ寄った。
澪は鞄の紐を握り直した。
腕がまた鈍く痛んだ。
その痛みは確かだった。
昨日、水を運んだことも、スープを飲んだことも、結菜と同じ場所で白い姿を見たことも確かだった。
けれど、その姿だけが、二人の間で少しずつ違う形をしている。
「名前は?」
結菜が尋ねた。
「セフィリアって、聞こえたの?」
「聞こえてない」
澪は答えた。
「じゃあ、あの子が言ったんじゃないの?」
「声は聞いてない」
「でも、見たときにセフィリアだと思った?」
澪は頷いた。
「見たときに、なぜかそう思った」
結菜は腕を組もうとして、筋肉痛を思い出したらしく、すぐに下ろした。
「変なの」
「うん」
「でも、澪が適当に言った感じもしなかったんだよね」
「自分でも分からない」
水路の光が風で崩れ、細かく分かれた。
結菜はその光をしばらく見ていた。
「昨日のスープさ」
突然、結菜が言った。
「スープ?」
「私、最初にレモンバームの匂いがしたんだけど、澪はタイムの香りが強いって言ったじゃん」
「言った」
「同じ器から飲んでたのに」
「器は別だったけど」
「そういうことじゃなくて」
結菜が澪の腕を軽く小突く。
澪は痛む方の腕だったので、少しだけ顔をしかめた。
「あ、ごめん」
「大丈夫」
「同じものでも、最初に分かるところが違うってこと」
結菜はもう一度、水路の向こうを見た。
「私には横顔で、澪には正面に見えたのかも」
「そんなことある?」
「知らない」
結菜はあっさり答えた。
「でも、片方が間違ってるって決めるよりはいいでしょ」
澪は昨日の白い姿を思い出そうとした。
白い髪。 こちらへ届いたように感じた視線。 セフィリアという音。
思い出そうと力を入れると、その輪郭はかえって光の奥へ遠ざかった。
「同じ子だったのかな」
澪が言う。
結菜は少し考えた。
「同じ子を、違うところから見たのかもしれないね」
「違うところ?」
「見る人の方」
結菜は自分を指し、それから澪を指した。
「私と澪で、見てる位置が少し違ったから」
「隣にいたよ」
「少しは違う」
「それであんなに変わる?」
「知らないってば」
結菜は笑った。
澪もつられて笑う。
二人はまた歩き始めた。
水路が道から離れ、住宅の間へ曲がっていく。
白い光はしばらく建物の隙間から見えていたが、やがて植え込みの向こうへ隠れた。
「ねえ」
結菜が言う。
「学校に着いたら、別々に覚えてることを書いてみない?」
「別々に?」
「うん。あとで比べる。これ以上しゃべると、どっちかの記憶が混ざりそうだから」
澪は少し考えて、頷いた。
「お父さんたちにも見せる?」
「先に二人で見る」
「どうして?」
「調査会だから」
「いつできたの」
「今」
結菜は得意そうに言った。
学校の塔が、街路樹の向こうに見えてくる。
入口の案内柱に、始業までの時間が表示されていた。
「あと九分」
澪が言う。
「走れる?」
「腕だけ筋肉痛だから」
「じゃあ走ろう」
二人は鞄を押さえながら走り出した。
足元の水たまりに、二つの影が映る。
同じ方向へ走っているのに、木漏れ日を通るたび、長さも輪郭も少しずつ違っていた。


