画像には映らないもの
澪たちがホームノードへ着いたとき、朝の共有開始までは三分を切っていた。
二人は息を整えながら、いつもの大きなテーブルへ鞄を置いた。
筋肉痛の残る右腕で走ったせいか、肩の奥がさっきより重い。
「昼休みね」
結菜が小声で言う。
「調査会?」
「そう」
「分かってる」
「会長なので、確認しました」
「いつ会長になったの」
結菜は答えず、自分の椅子を引いた。
四人が向かい合って座れる広いテーブルの中央には、細長い共有コンソールが埋め込まれている。
給電、端末接続、その日の連絡事項。
使われていないときは黒い帯のように天板へ沈み、向かいにいる相手の顔を遮るものは何もない。
テーブルの背後には、腰より低い収納棚と個人用のワゴンが並んでいた。
澪は鞄から必要なものだけを出し、残りを自分のワゴンへしまう。
そのとき、向かい側の空いた椅子に気づいた。
「ひより、まだ来てないね」
結菜もそちらを見る。
「ほんとだ」
水瀬ひよりの席だった。
ホームノードは、昔の学校でいうホームルーム教室に少し似ている。
けれど、一日そこで同じ授業を受ける場所ではない。
二十人ほどのホームメイトが朝に集まり、必要な連絡を共有し、それぞれが選択した講義や活動へ散っていく。
昼になれば戻ってくる者もいる。
放課後まで戻らない者もいる。
所属する場所であり、出発する場所でもあった。
生徒たちは、たいてい単に「ベース」と呼んでいる。
壁面表示が切り替わった。
今日の連絡事項。
講義室の変更。
午後の施設利用予定。
提出期限の近い共同制作。
ほどなく担当メンターが入ってきた。
点呼はない。
誰が校内に入り、誰がどの講義へ参加する予定なのかは、すでに学校システムが把握している。
だから、メンターが朝に確かめるのは名前ではなかった。
顔色。
声。
いつもより遅い動き。
何となく元気のない表情。
数字にするほどでもない、小さな違い。
五つのテーブルの間を歩きながら、一人ひとりへ目を向ける。
簡単な共有事項が終わったところで、メンターが言った。
「それから、水瀬さんは足首を捻挫したため、今日は登校しません。午前は自宅からリモート受講の予定です。午後の実技については、状態を見ながら休みに切り替えます」
「えっ、ひより?」
結菜が思わず声を漏らした。
澪も向かいの空いた席を見る。
「聞いてなかった」
「私も」
結菜は少し眉を寄せた。
「クラブも無理だよね」
「今日は休んだ方がいいよ」
「あとで連絡しよう」
「うん」
テーブル中央のコンソールには、その日のホームメイトの予定が小さく表示されていた。
ひよりの名前の横だけ、
《REMOTE》
と記されている。
結菜がそれを見た。
「いることはいるんだね」
澪も表示を見る。
「うん」
けれど、いつもの椅子は空いていた。

朝の共有が終わる。
ホームメイトたちは必要な端末や教材を手に取り、それぞれの履修先へ向かい始めた。
澪も背後のワゴンを開く。
昨夜、白い少女のような姿を描こうとして開いたスケッチブックではない。
授業の覚え書きや、思いついた色の組み合わせを書き留めるための、小さな紙のノートを取り出した。
まだ少し時間がある。
最後のページを開き、中央へ一本、縦線を引いた。
左側に、昨日見たもの。
右側には、まだ何も書かなかった。
白い髪。
水路の向こう。
大きな石の右側だった気がする。
光の集まる場所。
こちらを見ていた。
髪は長かった。長さは分からない。
服は思い出せない。
声は聞こえない。
セフィリア、と思った。
そこまで書いて、鉛筆が止まる。
「こちらを見ていた」という言葉だけが、ほかの行より強く見えた。
本当に見ていたのだろうか。
目の色も、表情も覚えていない。
それなのに、視線だけを覚えている。
澪は「こちら」の文字へ細い線を引き、「私」と書き直した。
私を見ていた。
書いた直後、胸の奥がわずかに縮んだ。
文字にすると、朝の通学路で話したときよりも、はっきりした事実のように見えてしまう。
澪はその一行の前に、小さく書き足した。
気がした。
私を見ていた気がした。
少しだけ呼吸がしやすくなった。
次の講義室への移動を知らせる表示が灯った。
澪はノートを閉じた。
まだ、右側は白いままだった。
昼休み。
澪がベースへ戻ると、結菜はすでに同じテーブルに座っていた。
朝と同じように、ひよりの椅子だけが空いている。
「書いた?」
結菜が尋ねる。
「少し」
「私も」
「見せる?」
「食べてから。お腹空いてると判断力が鈍るから」
結菜は自分の弁当を広げた。
今日の弁当には、小さなパンと、冷たい豆のサラダ、丸く焼いた卵が入っていた。
澪の弁当には、昨夜の夕食で余った野菜を詰めた薄焼きと、ハーブを混ぜた白いチーズが入っている。
結菜がチーズを見つめた。
「昨日のハーブ?」
「たぶん」
「一口交換しよう」
「昨日、香りは覚えるものだって言ってなかった?」
「味も覚えないと不完全です」
二人は薄焼きとパンを交換した。
セフィリアのことを話す前に食べ物の話をする。
それは決めたことではなかったが、二人とも自然にそうしていた。
結菜はチーズを口に入れ、目を細める。
「タイムが強い」
「私はレモンバームの方が先に分かる」
二人は顔を見合わせた。
「今度は逆だね」
澪が言った。
結菜が笑う。
「朝の話、本当じゃん」
「味まで違うのかな」
「味は同じ。でも、先に拾うところが違う」
食べ終えると、二人はそれぞれのノートをテーブルの上へ伏せた。
「せーので開く?」
結菜が言う。
「子どもみたい」
「私たち子どもでしょ」
「十三歳だけど」
「まだ十分」
結菜は澪の返事を待たずに数え始めた。
「せーの」
二冊のノートが開かれた。
澪は結菜の文字を読む。
白い髪。
大きな石の左側。
木の影。
横向き。
少し下を見ていた。
淡い服。長い袖。
声なし。
名前は知らなかった。
一番下に、小さな文字で、
きれいというより、寂しそうだった。
と書かれている。
「寂しそう?」
澪が尋ねる。
「うん。そう見えた」
「私は、寂しいとは思わなかった」
「じゃあ、どんな感じ?」
澪は自分のノートを見た。
「待ってたみたいだった」
「誰を?」
「分からない」
結菜も澪の書いたものを読む。
石の位置。
視線。
髪の長さ。
服を覚えていないこと。
一致するのは、白い髪の姿が水路の向こうに見えたことと、声を聞いていないことくらいだった。
「思ったより違うね」
結菜が言う。
「うん」
「でも、何もかも違うわけじゃない」
結菜は二冊のノートを横へ並べた。
「白い髪。水の向こう。声は聞いてない」
「それだけ?」
「あと、二人とも誰かがいたと思った」
「それは最初から分かってるでしょ」
「大事だよ」
結菜は真面目な顔で言った。
「細かいところが違っても、そこまで違うわけじゃない」
澪は二冊のノートを見下ろした。
結菜の見た横顔。
澪の方を向いていたように感じた姿。
二つの像を重ねようとすると、うまく合わない。
けれど、無理に一枚へ重ねなくてもよいのかもしれなかった。
「お父さんにも見せる?」
澪が尋ねる。
「うん。でも、先に今の状態を残しておこう」
「今の状態?」
「あとで見直したら、書き足したくなるかもしれないでしょ」
「書き直したら、最初の記録が分からなくなる」
「だから写真撮っとく」
結菜は端末を取り出した。
二冊のページを、一枚ずつ撮影する。
撮影が終わると、画面上に自動分類の候補が表示された。
《人物観察》
《共同学習》
《未確認事象》
結菜はしばらく眺め、最後の項目を指で押した。
さらに細かな分類を求める表示が現れる。
人物像。
光学現象。
記憶照合。
その他。
結菜はどれも選ばなかった。
「今はいい」
画面を閉じる。
「お父さんみたい」
澪が言った。
「何が?」
「分類を決めないところ」
「決められないだけです」
結菜は端末をしまった。
「でも、決められないときは決めない方がいいんでしょ?」
澪は頷いた。
それが正しいのかは分からない。
ただ、少なくとも今は、二人の記憶のどちらかを間違いにするよりよかった。
テーブルの向かいには、ひよりの空いた席がある。
中央のコンソールにはもう《REMOTE》の表示はなかった。
午前の講義が終わったのだろう。
澪は一瞬だけそこを見てから、自分のノートを閉じた。
午後の美術講義室には、乾いた絵具と紙の匂いが残っていた。
壁際には、前の学年が使った石膏像や、形の違う瓶が並んでいる。
窓は上部だけが開き、外から運動場の声と、夏の少し湿った風が入ってきた。
授業が始まる前、美術担当の教師が倉庫から何枚かの作品を運び出した。
厚い保護紙に挟まれ、角を留められた大きな絵。
澪はその中に自分の作品があることへすぐ気づいた。
春のコンクールへ出していた絵だった。
結果は二番手。
一番ではなかったことよりも、玲が会場へ来られなかったことの方が、今も絵の隅に小さく残っている。
教師が一人ずつ名前を呼び、作品を返していく。
「青木」
澪は前へ出た。
「お疲れさま。保管状態は問題ないと思うけど、一応確認してね」
「はい」
受け取ると、思っていたより重かった。
右腕の筋肉痛に絵の重さが加わり、澪は少し抱え直した。
教師が保護紙の端を確認しながら言った。
「講評にもあったけど、光の表現はすごくよかったよ」
「ありがとうございます」
「次は、もう少し手前の空間まで見せられると、一段深くなると思う」
澪は頷いた。
同じことを、結果が出たときにも聞いている。
「お母さんにも見てもらった?」
教師は何気ない調子で尋ねた。
澪は一瞬だけ黙った。
「画像では」
「ああ、今は海外だっけ」
「はい」
「そうだったね。きっと喜んだでしょう」
「はい」
嘘ではなかった。
玲は通信画面の向こうで何度も褒めた。
光がきれいだと言った。
澪らしい色だと言った。
帰ったらゆっくり話を聞かせてと言った。
けれど、教師の「見てもらった」という言葉に、澪の中では小さなずれが残った。
画像で見ることと、絵を見ることは同じなのだろうか。
席へ戻り、作品を机の横へ立てかける。
授業は光と影の基礎練習だった。
白い箱と丸い果物を並べ、窓から差す光によってできる影を描く。
澪は鉛筆を動かしながら、ときどき返された作品を見た。
授業の終わり頃、日が少し傾いた。
窓から入る光の角度が変わり、保護紙の隙間から絵の表面へ細い光が差し込む。
澪は手を止めた。
絵を少しだけ引き出す。
乾いた絵具の凹凸へ光が当たり、同じ青の中に細かな明暗が現れた。
筆を重ねた場所は光を鈍く返し、薄く塗った場所は紙の白さを透かしている。
画像では平らに見えていた空の部分に、かすかな起伏があった。
描いていたとき、思うような色が出ず、何度も塗り直した場所だった。
その跡が、今は光の角度によって一番深く見える。
玲が見た画像には、これは映っていただろうか。
澪は端末を開き、以前送った作品の写真を表示した。
整えられた明るさ。
正面から切り取られた構図。
歪みのない色。
きれいに記録されている。
けれど画面を傾けても、絵具の厚みは変わらない。
指で拡大しても、塗り直した時間までは出てこなかった。
「青木、どうした?」
教師の声に、澪は端末を閉じた。
「何でもないです」
「作品、傷ついてた?」
「大丈夫です」
澪は絵をもう一度保護紙の中へ戻した。
大丈夫。
確かに傷はなかった。
けれど、今まで気づかなかったものが一つだけ増えていた。
玲はこの絵を知っている。
それでも、まだこの絵を見てはいないのかもしれない。
放課後。
澪は作品を抱えて、ベースへ戻った。
朝には空いていたひよりの席も、もちろんそのままだった。
中央コンソールの端に、短いメッセージが届いている。
《捻挫だけ。大丈夫です。クラブは休みます》
送信者は、ひより。
結菜が隣から覗き込んだ。
「大丈夫だって」
「よかった」
「でも絶対、大丈夫って言うと思った」
「ひよりだからね」
二人は少し笑った。
結菜が絵を見る。
「それ、持って帰るんだよね」
「うん」
「持とうか?」
「大丈夫」
「重そう」
澪は抱え直した。
右腕は朝より痛かった。
「重いけど、自分で持って帰りたい」
結菜は何も言わず、伸ばしかけた手を引いた。
二人はホームノードを出た。
校舎の外には、午後の光が残っていた。
二人の影は、朝より短くなっている。
作品の角が日を遮り、澪の胸元へ四角い影を落とした。
その影の中で、絵は誰にも見えなかった。


