裏返した絵
澪が自室へ上がってから、三十分ほど経っても通信は再開されなかった。
机の横には、閉じたままの作品が立てかけてある。
窓から差し込む庭の照明が、厚い保護紙の縁だけを白く浮かび上がらせていた。
澪はベッドへ座り、端末の時刻を見る。
九時十二分。
玲からの連絡はない。
遺構の調査が予定どおりに終わらないことは珍しくなかった。
少し待つと言われて一時間になることもある。
通信の約束そのものが翌日へ延びることもある。
それでも今日は、いつもより時間が遅く進んでいる気がした。
澪は机へ向かい、学校で結菜と書き出した記録を開いた。
白い髪。
水の向こう。
声は聞いていない。
自分を見ていた気がした。
結菜の記録には、横を向いていたと書かれている。
寂しそうだった。
二人の言葉を並べると、同じ少女について書いたものには見えなかった。
それでも、どちらかを消す気にはならない。
澪はノートの余白へ、二つの小さな人影を描いた。
一人は正面を向いている。
もう一人は横顔だった。
どちらも輪郭だけで、髪や服は描かなかった。
描き終えてから、二人の間へ細い水面の線を引いた。
そのとき、机上の端末が震えた。
澪はすぐに画面を開く。
表示されたのは玲からの直接通信ではなく、奏人を経由した短いメッセージだった。
《地下測定の確認が長引いています。今日はもう通信に戻れないかもしれません。ごめんね。絵は必ずゆっくり見せてください》
澪は文章を一度読み、もう一度読んだ。
必ず。
ゆっくり。
見せてください。
玲が自分で入力したのか、音声から変換されたのかは分からない。
最後には、玲がよく使う小さな光の記号が一つ付いていた。
澪は返信欄を開く。
《分かった》
と入力した。
そのあとに何か付け足そうとして、指が止まる。
《大丈夫》
と書きかけ、消した。
大丈夫ではない、と言いたいわけではなかった。
玲を責めたいわけでもない。
ただ、何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
澪は《分かった》だけを送信した。
画面が暗くなる。
机の横の作品は、まだこちらを向いている。
澪は立ち上がり、両手で保護紙の端を持った。
昨日から残る腕の痛みが、持ち上げる動作に合わせて戻ってくる。
作品を百八十度回し、壁の方へ向ける。
管理票も、作品名も、審査結果も見えなくなった。
澪は何も描かれていない裏面をしばらく眺めた。
白く、平らで、光をほとんど返さない。

絵が消えたわけではない。
ただ、今は見えない側へ向けただけだった。
*
階下では、奏人が一人でリビングに残っていた。
玲との連絡画面には、短い音声記録が届いている。
『ごめんなさい。地中側の温度分布が変わったの。澪に、今日は難しいって伝えてくれる?』
声の後ろには、風と人の足音が混じっていた。
奏人は返信を送る。
《伝えた。絵は開いていない》
既読の表示がつくまでには少し時間がかかった。
『そう』
玲の返事は、それだけだった。
その一文字に、疲労と落胆の両方があった。
奏人は通信画面を閉じず、少し待った。
やがて玲から、もう一つ短い文が届く。
《早く帰りたい》
奏人は画面を見つめた。
それが今夜の調査地点から宿舎へ戻りたいという意味なのか、日本の家へ帰りたいという意味なのかは尋ねなかった。
《もう少しだ》
とだけ返した。
玲から返事はなかった。
奏人は照明を落とし、テーブルの上に残っていた水のグラスを片づける。
投影装置のそばには、さっきまで作品が置かれていた空間だけが空いていた。
*
翌朝、澪がリビングへ下りると、奏人はすでに朝食を用意していた。
焼いたパン。
薄く切った果物。
昨夜の残りの野菜を入れた卵料理。
いつもと同じ朝に見えた。
ただ、テーブルの端に見慣れない小さな端末が置かれている。
澪が椅子へ座ると、奏人はすぐに端末を伏せた。
「それ、何?」
「確認用」
「何の?」
「仕事の」
奏人は短く答え、澪の前へ皿を置いた。
澪は伏せられた端末を見る。
側面に、旅券管理局の小さな印が見えた気がした。
けれど奏人はもう、冷蔵庫から飲み物を取り出している。
「ママ、戻った?」
澪が尋ねる。
「宿舎には戻った。今は寝てる」
「何時?」
「向こうの夜九時半くらい」
「そうじゃなくて、こっちの時間で」
奏人は少し考えた。
「三時半くらいだったと思う」
澪はパンを千切った。
まだ少し温かい。
「測定、どうだったの?」
「数値がずれただけらしい。原因は調査中」
「セフィリアと関係ある?」
奏人はすぐには答えなかった。
「分からない」
「三つの碑文とは?」
「それも分からない」
「全部分からないね」
澪が言うと、奏人は卵料理を切り分けた。
「分からないものが増えたのは、分かったことが増えたからだ」
澪は顔を上げる。
「どういうこと?」
「何も知らなければ、疑問も一つしかない。調べて線が増えると、分からない場所も増える」
「それって、進んでるの?」
「たぶん」
奏人はそう言った。
「少なくとも、戻ってはいない」
澪はパンを口へ運んだ。
噛むと、表面の乾いた音が小さく鳴る。
「絵は?」
奏人が尋ねた。
「部屋にある」
「開いた?」
「開いてない」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
澪は少し迷ってから言う。
「裏返した」
奏人の手が止まる。
「見たくないのか?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何で?」
澪は答えを探した。
見たくないわけではない。
むしろ、開きたい。
けれど一人で開いてしまうと、玲と見たかった時間まで、自分だけで先に進んでしまうような気がした。
「まだ、表にしなくていいと思ったから」
奏人はしばらく澪を見ていた。
「分かった」
昨日と同じ答えだった。
奏人は伏せていた端末を取り、台所の棚へしまう。
その動作がいつもより少しだけ早かった。
「パパ」
「ん?」
「何か隠してる?」
奏人は棚の扉を閉めた。
「何でそう思う」
「今の端末」
「仕事だ」
「昨日から変」
「普段からこんなものだろ」
「そうかも」
澪は果物を一切れ取った。
奏人は平然と朝食を続けている。
けれど、澪が見ていないと思った瞬間、棚の方へ一度だけ視線を向けた。
その視線を、澪は見逃さなかった。
*
登校前、澪は自室へ鞄を取りに戻った。
机の横では、作品の裏側がこちらを向いている。
朝の光は窓から入り、白い保護紙の上へ薄い四角形を作っていた。
澪は作品へ近づいた。
裏返そうと思えば、すぐにできる。
それでも手は伸ばさなかった。
代わりに、保護紙の上へ指先を置く。
絵のある側は、壁側に隠れている。
ママが見た画像も、先生の講評も、審査結果も、今は見えない。
それでも作品は、そこにある。
澪は指を離し、通学鞄を肩へ掛けた。
昨日より、腕の痛みは少しだけ軽くなっていた。
玄関へ向かおうとしたとき、端末に結菜からメッセージが届いた。
《調査会、今日もやりますか》
澪は少し考え、
《放課後。昨日のノート持ってきて》
と返した。
送信後、澪は机の横の作品を見た。
少し迷って、もう一文を付け加える。
《昨日の絵、まだ開けてない》
すぐに結菜から返信が来た。
《玲さんと一緒に見るんだっけ》
《うん》
澪は作品の裏面を見る。
《でも、白い子のことと少し関係あるかもしれない》
《どういうこと?》
澪は少し考えた。
《まだ分からない》
送信してから、澪自身がその言葉を見つめた。
何がどう関係しているのかは、まだ分からない。
ただ、画像には映らなかった絵の厚みと、二人には違って見えた白い少女が、どこか同じ場所へつながっている気がした。
澪は端末をしまい、部屋を出た。
扉が閉まる。
朝の光だけが残り、裏返された絵の向こう側で、見えない青が静かに明るくなっていた。


