三人分の夕食
空港を出てから、澪は何度か窓の外を見た。
乾いた道路。
低い建物。
白っぽい石の壁。
遠くに見える海。
車が進むたびに、空港で感じた匂いとは少しずつ違うものが混ざってくる。
土。
草。
熱を持った石。
時々、潮の気配。
玲は助手席から何度か振り返った。
「眠い?」
「少し」
「お腹は?」
「少し」
「どっちも少しね」
奏人が運転席から言う。
「今は質問を増やさない方がいいんじゃないか」
「二か月ぶりなのよ」
「二か月分を一時間で聞く気か」
玲は少し考えた。
「……三時間くらい?」
「増えた」
澪は後部座席で笑った。
笑っただけで、少し眠くなった。
それを見た玲が、今度は何も聞かなかった。
*
宿泊棟は、海から少し離れた高台にあった。
大きなホテルではない。
調査員や長期滞在者が使う、小さな住居をいくつかまとめたような建物だった。
玲が使っている部屋には、簡単な台所と食卓、それから寝室が二つある。
玄関を入ると、澪は最初に靴を脱ごうとして止まった。
玲が笑う。
「そのままでいいのよ」
「まだ慣れない」
「私も最初やった」
奏人が荷物を運びながら言う。
「日本人が三人いると、玄関だけ日本式にしたくなるな」
「勝手に変えないでね」
黒い輸送ケースは、窓から離れた壁際へ置いた。
表示は緑のままだった。
澪は一度、その表面へ手を置く。
「今日は開けないんだよね」
玲が聞いた。
「うん」
「本当に?」
「今日はいい」
自分で答えてから、澪は少し不思議に思った。
日本を出る前は、着いたらすぐにでも見せたいと思っていた。
けれど今は、ケースがそこにあるだけでよかった。
明日もある。
玲もいる。
急がなくていい。
玲は窓の外を見た。
「まだ明るいけど、海、行ってみる?」
澪も窓を見る。
空は青い。
遠くには、細い海の光も見える。
行きたいと思った。
けれど立ち上がろうとすると、足が重かった。
「……明日がいい」
玲はすぐに頷いた。
「分かった」
「いいの?」
「海は逃げないから」
奏人が言う。
「玲は逃げるかもしれないけどな」
「逃げないわよ」
「仕事の連絡が来たら行くだろ」
玲は少しだけ言葉に詰まった。
「……今日は行かない」
澪は玲を見る。
玲は自分の仕事端末を鞄から出し、食卓の端へ置いた。
画面にはいくつか通知が出ていた。
けれど玲は確認せず、端末を伏せた。
「今日は、こっち」
そう言って台所へ向かった。
*
移動で疲れている二人に合わせて、夕食はいつもより早い時間にした。
窓の外には、まだ午後の明るさが残っている。
夕食は、玲が途中まで作っておいたものだった。
豆と野菜の煮込み。
少し硬いパン。
オリーブを使った小さな副菜。
それから、冷たい水。
食卓に三人分の器が並ぶ。
澪は椅子へ座りながら、その数を見た。
三つ。
それだけなのに、少し変な感じがする。
日本では、玲が通信で食卓にいることは何度もあった。
投影なら、同じ場所に座っているように見せることもできた。
けれど、玲の前にも本当に器がある。
玲がパンをちぎる。
スプーンが器へ触れる。
水を飲めば、グラスの中身が減る。
「味、大丈夫?」
玲が聞いた。
澪は煮込みを一口食べる。
豆は柔らかい。
トマトに似た酸味。
知らない香草。
「おいしい」
「よかった」
「ママが作ったの?」
「半分」
「半分?」
「豆は煮た。味付けは途中でマリクに聞いた」
「誰?」
「ここの調理担当」
奏人が一口食べる。
「つまり、現地監修付きか」
「そういうこと」
玲は少し得意そうだった。
澪はもう一口食べた。
日本で食べる煮込みとは違う。
でも、乗り継ぎの空港で食べたものほど遠くもない。
知らない味なのに、落ち着く。
「ネクサスはどう?」
玲が聞いた。
「うん。楽しいよ」
「みんなとうまくいってる?」
「うん」
「新しいお友達はできた?」
「できたよ」
「どんな子?」
澪はパンをちぎった。
何から話せばいいのか分からない。
玲は待つ。
けれど、数秒でまた口を開いた。
「絵は? あの青いの以外にも描いた?」
「描いた」
「何を?」
「いろいろ」
「それから、アルバイトは――」
「玲」
奏人が止めた。
玲が奏人を見る。
「何?」
「食べさせろ」
「食べてるわよ」
「澪の手、止まってる」
玲が澪を見る。
澪の手には、ちぎりかけのパンがある。
「あ」
玲は少し気まずそうに笑った。
「……聞きすぎた?」
「ちょっと」
「ごめん」
「いいけど」
奏人が言う。
「一晩で全部聞こうとするな」
「分かってる」
玲は煮込みを一口食べた。
今度は何も聞かなかった。
食卓に、スプーンの音だけが少し続く。
澪はその静けさが嫌ではなかった。
通信のときは、黙ると何か話さなければいけない気がした。
回線の向こうにいる人が、そこにいるか確認するために。
今は違う。
玲は黙っていても目の前にいる。
奏人もいる。
三人とも同じ煮込みを食べている。
それだけで時間が進んでいた。
少しして、玲が言う。
「結菜ちゃん、元気?」
今度の声は、さっきよりゆっくりだった。
澪は頷く。
「元気。朝も起きて見送ってくれた」
「朝四時に?」
「通信で」
「すごいわね」
「起きて待っててくれた」
「優しいわね」
そこから澪は少しずつ話した。
結菜が香り袋を作ってくれたこと。
空港の匂いを報告する約束。
乗り継ぎで食べた知らない香草。
絵を運ぶのが少し怖かったこと。
玲は途中で質問せず、聞いていた。
時々、笑う。
時々、短く頷く。
澪が言葉を探して止まると、そのまま待った。
パンを一口食べてから、澪は言った。
「ネクサスにね、陽斗くんっているんだけど」
「うん」
「いつも楽しそうなの。陽斗くんがいると、誰かが笑ってる」
そう言いながら、澪も少し笑った。
「何を話してたか忘れても、笑ったのは覚えてる」
玲の口元が緩んだ。
「それは、会ってみたいわね」
「あと、真琴さん。困ったときに聞くと、一緒に考えてくれる」
「頼りになりそうね」
「うん。話してると、何からやればいいか分かってくる」
玲は頷いた。
澪は煮込みをすくう。
さっきは何から話せばいいのか分からなかったのに、一人の顔を思い浮かべると、その隣にいた人の顔も浮かんだ。
食べながら、少しずつ話した。
玲は今度は、次の質問を急がなかった。
話が途切れてから、パンへ手を伸ばす。
「グリーンオアシスのアルバイトも、続けてるのよね」
「うん」
「ランチ、人気なんでしょう? 予約もなかなか取れないんじゃない?」
「日によるけど、早く埋まることはあるよ」
「帰ったら、私も食べに行きたいな」
「じゃあ、先に予約しておいてね」
奏人が笑った。
「家族でも、そこは同じか」
「だって、席がないと座れないもの」
「それはそうね」
玲も笑い、残っていたパンをちぎった。

*
食事が半分ほど終わった頃、伏せていた玲の端末が一度だけ震えた。
玲の視線がそちらへ動く。
画面は下を向いたままなので、内容は見えない。
澪も端末を見る。
玲は数秒迷ったあと、手を伸ばさなかった。
「見なくていいの?」
澪が聞く。
「緊急なら、別の通知が来るから」
「仕事じゃないの?」
「仕事よ」
「じゃあいいの?」
玲は澪を見る。
「今日は、いいの」
奏人が水を飲む。
「珍しいな」
「何よ」
「いや、記録しておこうかと思って」
「しなくていい」
澪は笑った。
玲も笑う。
そのときだった。
澪の表情が止まった。
スプーンを持った手が、器の少し上で動かなくなる。
玲が先に気づいた。
「澪?」
澪は床の方を見た。
まだ何も動いていない。
でも、胸の奥というより、もっと下。
足の裏から少し離れたところに、低い何かが近づいてくるような感じがした。
「……くる」
奏人がすぐにグラスへ手を添えた。
玲も食卓の端を見る。
「地震?」
澪は小さく頷く。
「うん」
数秒。
何も起きない。
そのあと、テーブルの上の水がわずかに揺れた。
グラスの縁へ、細い波が触れる。
食器が一度だけ、小さく鳴った。
床の下を、軽い振動が通り過ぎる。
長くは続かなかった。
玲は天井を見る。
奏人は窓の外を見る。
澪はまだ床を見ている。
やがて、何も動かなくなった。
「……終わった」
澪が言った。
壁際の室内端末に、小さな表示が出る。
《微弱な地震動を検出しました》
その下に、
《建物設備に異常は確認されていません》
と続いた。
奏人がグラスから手を離す。
「小さいな」
「このくらいなら、たまにあるわ」
玲が言った。
「最近多い?」
「どうだろう。少し増えたって言う人もいるけど、記録を見ないと分からない」
玲はそう言ってから、澪を見た。
澪は普通にパンをちぎっていた。
「何?」
「ここでも、分かるのね」
澪は少し考えた。
「何が?」
「揺れる前」
「ああ」
澪はパンを煮込みへつける。
「なんとなく」
玲は一瞬だけ何かを言いかけた。
けれど、やめた。
「そっか」
それだけ言った。
奏人も何も足さなかった。
三人はそのまま食事へ戻った。
数分後には、地震の話は別の話に変わっていた。
*
食後、澪は結菜へ短いメッセージを送った。
《夕食食べた》
少し考えて、
《豆の煮込み。おいしかった》
と続ける。
さらに、
《さっき小さい地震あった》
と入力した。
結菜からすぐに返信が来た。
《大丈夫?》
《大丈夫。すぐ終わった》
《揺れる前に分かった?》
澪は少し止まった。
結菜は昔から知っている。
《うん》
《やっぱり》
《でも小さかった》
《ならよかった》
そのあと、
《匂いは?》
と来た。
澪は食卓を見る。
豆。
パン。
玲の服についた少しの土。
開けた窓から入る乾いた空気。
《家じゃないけど、家みたいな匂い》
送る。
少しして、
《分かりにくいです》
と返ってきた。
澪は笑った。
《でもそうなの》
《記録しておきます》
昨日から何度目か分からない返事だった。
*
風呂を終える頃には、身体の重さが一気に増していた。
玲が用意してくれた寝室には、小さな机とベッド、それから窓が一つある。
窓の外には、昼間とは違うリュキアの明かりが見えた。
遠くの道路。
低い建物。
その向こうは暗く、海がどこにあるのかは分からない。
澪はベッドへ座った。
鞄から白い香り袋を出す。
少しだけ開く。
タイム。
レモンバーム。
日本の家。
今日一日で、ずいぶん遠くまで来た。
それでも、隣の部屋には奏人と玲がいる。
廊下の向こうから、二人の声が聞こえた。
何を話しているのかまでは分からない。
奏人が何か言う。
玲が返す。
少し間があって、二人が小さく笑った。
澪は立ち上がり、寝室の扉へ行った。
閉める。
――少し考える。
もう一度開ける。
全部ではなく、手のひら一枚分くらい。
廊下の灯りが、細い線になって床へ入ってきた。
「澪?」
玲の声がする。
「なに?」
「扉、開けておくの?」
澪は少し考えた。
「うん」
「分かった」
それだけだった。
玲は閉めに来なかった。
奏人も何も言わなかった。
澪はベッドへ戻る。
布団をかける。
廊下の光が見える。
その向こうで、まだ二人の声がする。
通信なら、会話が終われば画面が暗くなる。
音も消える。
接続終了。
それで終わりだった。
でも今日は違う。
話していなくても、玲はいる。
奏人もいる。
同じ建物の中で、それぞれ別のことをしている。
澪は目を閉じた。
扉の向こうで、玲が何かを言った。
奏人が小さく笑った。
内容までは聞き取れなかった。
でも、それでよかった。
通信は、切れていない。
そもそも今日は、
つながなくてもよかった。


