青の重なり
目を開けると、知らない天井があった。
澪はしばらく、その白さを見ていた。
窓の方から入ってくる光が、日本の部屋とは違う場所に落ちている。
廊下で、器の触れる音がした。
「そっち、熱いぞ」
「分かってる」
玲の声だった。
そのあとで、奏人が小さく笑った。
澪は顔を横へ向ける。
寝室の扉は、昨夜開けた幅のままになっていた。
細い隙間の向こうが、もう明るい。
昨日、ここへ来た。
そう思い出してから、身体を起こした。
枕元の香り袋を鞄へ戻し、窓へ近づく。
低い建物の屋根の向こうに、海があった。
昨日は光の線に見えた場所が、今朝は青く広がっている。
澪は窓枠に手を置いた。
まだ、少し眠い。
けれど、昨日のように足が重くはなかった。
*
「おはよう」
食卓へ行くと、玲が顔を上げた。
「眠れた?」
「うん」
「途中で起きなかった?」
「起きてない」
奏人がパンの皿を食卓へ置いた。
「今日は二問で止まったな」
「朝だからね」
「昼には増えるのか」
玲は答えず、澪の前に器を置いた。
ヨーグルトと、切った果物。
パンは昨日より薄く切られ、端に焼き色がついていた。
澪は椅子へ座る。
三人分の朝食がある。
昨日は、器の数を確かめた。
今朝は先に、パンへ手が伸びた。
「海、行ってみようか」
食事が終わる頃、玲が言った。
「暑くなる前に」
澪は頷きかけて、壁際を見た。
黒い輸送ケースが、昨日置いた場所にある。
「その前に」
玲が待つ。
「絵、見てもらっていい?」
玲は少しだけ目を大きくして、それから笑った。
「もちろん」
*
食卓を片づけ、乾いた布で拭く。
奏人がケースの片側を持った。
澪も反対側へ回る。
日本の家で持ち上げたときと、同じ持ち手だった。
けれど、今度は運ぶ距離が短い。
食卓へ静かに下ろすと、奏人が表示を確認した。
「問題なし」
澪は留め具へ手をかけた。
一つ。
もう一つ。
開く音が、思っていたより大きく聞こえた。
玲は向かい側に立っていた。
何も言わずに、澪の手元を見ている。
蓋を開ける。
保護材を外す。
青が見えた。
澪は息をついた。
傷も、変わったところも見当たらない。
それでも、同じ絵なのかと思った。
日本の家で見たときより、明るい。
窓の近くにあった薄いカーテンを、奏人が少し引いた。直接の日差しが避けられ、柔らかい光が食卓へ広がる。
澪と奏人は絵を取り出し、玲から見やすい向きに整えた。
玲は少し近づいた。
それから、半歩下がった。
澪はその顔を見る。
玲はまだ絵を見ている。
「……どう?」
聞いてから、少し早かったかもしれないと思った。
「うん」
玲は頷いた。
「ちょっと、待ってね」
澪も頷く。
待った。
台所の方で、小さく何かが作動する音がした。
外からは、人の声が遠く聞こえる。
玲は絵の端へ視線を動かし、もう一度、中央へ戻した。
「ここ、こんなふうになってたのね」
触れないところで、指を止める。
青の上に、別の青が薄く重なった場所だった。
「通信だと、もう少し平らに見えてた」
「うん」
「近くで見ると、下の色が残ってる」
澪は玲の隣へ移った。
「そこ、一回塗ってから、また変えたの」
「全部は隠さなかったんだ」
「隠したら、違ったから」
玲が澪を見る。
澪は絵を見たまま、少し考えた。
「上の色だけだと、きれいなんだけど……それだけになった」
うまく言えた気はしなかった。
けれど玲は、もう一度その場所を見た。
「そっか」
急いで分かったことにしない声だった。
それが、澪には嬉しかった。
奏人は二人の少し後ろで、空になった保護材を揃えている。
玲はしばらく見てから言った。
「好きだな、この青」
澪は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん。持ってきてくれて、ありがとう」
澪は小さく頷いた。
日本で包んだときも、空港で預けたときも、開けて確かめたくなったときも、ずっと絵のことを気にしていた。
今は、玲が見ている。
そこまで来たのだと思った。
*
玲が窓の方へ目を向けた。
「今日は、よく晴れたね」
その視線を追って、澪も海を見る。
遠くの青。
手前の絵の青。
似ているかと聞かれたら、違うと思う。
海の方が明るい場所もあるし、絵の方が深く見える場所もある。
それでも、片方を見たあとにもう片方を見ると、さっきは気づかなかった色が見えた。
澪は少しだけ、立つ場所を変えた。
絵の表面にあった光が、薄く動く。
「どうした?」
奏人が聞いた。
「ここで見ると、違うね」
「光が違うからな」
「うん」
それもある。
でも、それだけかどうかは分からなかった。
玲は澪の横で、同じように絵と窓を見た。
「海の方も、近くで見てみようか」
今度は、澪もすぐに頷いた。
絵はいったんケースへ戻し、蓋を閉じた。
飾る場所は、帰ってから三人で考えることにした。
*
外へ出ると、石の道にはもう暖かさがあった。
建物の影に入ると、空気が少し冷たい。
坂を下る途中、玲が細い道へ曲がった。
「こっち」
壁際に置かれた鉢から、細い葉が通路へ伸びている。
扉の開いた店。
どこかで焼いているパンの匂い。
その間に、海の気配が少しずつ濃くなった。
澪は玲の隣を歩いたり、少し遅れたりした。
奏人は後ろからついてくる。
坂を下りきると、建物の間が開けた。
海が見えた。
澪は足を止めた。
宿の窓から見えた青より、ずっと広かった。
岸の近くでは、底の石が透けている。
水が動くたびに、明るい筋が石の上を滑った。
その先は緑を含んだ青。
さらに遠くでは、濃い青が低い空へ続いている。
一つの色だと思って見ていたものが、近づくといくつにも分かれていた。
「昨日、来たかった?」
玲が聞いた。
澪は少し考えた。
「昨日だったら、眠かったと思う」
「そうね」
「今日でよかった」
玲も海を見た。
「私も」
海沿いの道を、ゆっくり歩いた。
風が吹くと、澪の髪が頬へかかった。
耳へかけながら、水の色を見る。
同じ場所なのに、少し前とは違っていた。
雲の影が遠くを通っている。
波の向きが変わる。
青を見ているつもりで、光が動くのを見ていた。
*
澪は端末を取り出した。
海へ向ける。
画面の中にも、青が広がった。
一枚撮ってから、実物を見る。
もう一度、画面を見る。
「違う?」
奏人が横から聞いた。
「少し」
「全部は入らないか」
澪は頷いた。
波の音も、風も、入っていない。
それでも、見せたかった。
ネクサスのメイトの共有トークを開く。
《リュキアの海。今、来てる》
写真を添えて送った。
日本の時刻を確かめると、もう午後になっていた。
端末を下ろしかけたところで、返信が来る。
陽斗だった。
《青っ! これ本当にこの色?》
澪は笑った。
《本当。でも本物はもう少し違う》
送ってから、自分でも分かりにくいと思った。
《じゃあ、あと三枚》
「三枚だって」
思わず声に出た。
「何が?」
玲が聞く。
「海の写真」
「ネクサスのお友達?」
「うん。昨日話した、陽斗くん」
玲が笑った。
「早いわね」
画面には、莉央からの返信も増えていた。
《手前の透けてるところも見たい!》
澪は岸に近い水へ端末を向けた。
底の石に光が揺れている。
今度は少し待ってから撮った。
颯真と律の名前が並び、汐音からもリアクションがつく。
その中に、榊原 詠の反応まであった。
澪は口元を緩めた。
同じ景色の前にはいない。
けれど、一枚の写真をそれぞれが見ていると思うと、ここで立ち止まっている時間が少し賑やかになった。
「もう一枚?」
奏人が聞いた。
「うん」
澪は海から端末を戻し、二人へ向けた。
「パパとママも」
玲が自分の髪へ触れた。
「急ね」
「そのままでいいよ」
奏人が玲の隣へ寄る。
玲は何か言いかけて、やめた。
二人の後ろで、海が光っていた。

澪は一枚撮った。
今度はすぐに送らず、画面を少し長く見た。
*
結菜には、海の写真と一緒に短く送った。
《海まで来た》
返信を待つ間に、もう一つ入力する。
《匂いは、塩と、あったかい石》
少しして、結菜から返ってきた。
《昨日より分かる》
澪は笑った。
《パンの匂いもした》
《それは近くのお店では》
《たぶん》
風が来た。
今度は潮の匂いが強かった。
澪は端末を片手に持ったまま、海の方を向く。
《絵も見せたよ》
そう送ると、返事まで少し間があった。
《どうだった?》
《好きだって》
送った文字を、自分でも読んだ。
さっき玲に言われたときとは、また少し違う嬉しさがあった。
《よかったね》
澪は頷いた。
結菜からは見えないのに、頷いていた。
*
端末をしまうと、玲と奏人は少し先の日陰で待っていた。
玲が海を指し、奏人がそちらを見ている。
澪は二人のところへ歩いた。
「送れた?」
「うん」
「結菜ちゃんにも?」
「匂い、昨日より分かるって」
玲が笑った。
「写真で?」
「言葉で」
「ああ、そっちね」
三人で、また歩き始めた。
海沿いの道は、先で緩く曲がっている。
曲がった向こうには、まだ見ていない水の色があった。
澪はそちらを見てから、一度だけ振り返った。
さっき写真を撮った場所に、同じ青はもうなかった。
けれど、消えてしまった感じはしなかった。
朝、玲と並んで見た絵の青。
端末に残った海の青。
今、目の前で動いている青。
澪は日陰を出た。
少し先で、玲が足を緩める。
追いつくと、三人の歩く速さが揃った。
「帰ったら、絵をもう一回見たい」
澪が言った。
「いいね」
玲が答えた。
海から来た風が、三人の間を通り抜けた。


