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TEMPLE CODE CHRONICLE 覚醒編 32|ママの歩く道

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目次

ママの歩く道

昨夜、玄関にそろえておいた靴へ、澪は足を入れた。

足首の留め具を締め、立ち上がる。

昨日履いていた靴より、少しだけ足首がしっかりしている気がした。

「きつくない?」

奏人が聞いた。

「大丈夫」

「水は?」

澪は鞄の脇を叩いた。

「入ってる」

「帽子」

今度は頭を指した。

奏人は満足そうに頷いた。

台所から玲が出てきた。

今日は薄手の長袖に、動きやすそうなパンツを合わせていた。袖口を整えながら、肩へ鞄を掛ける。

市場でトマトを選んでいた昨日とは、少し違って見えた。

「準備できた?」

「うん」

澪は立ち上がったまま、食卓の方を振り返った。

窓の横には、昨日飾った絵がある。

玲が扉を開けると、朝の光が玄関に差し込んできた。

*

車は海沿いの道を進んだ。

低い壁の切れ目から、水面が見えたり隠れたりする。

澪は窓へ顔を向けていた。

「ママ、いつもこの道?」

「拠点へ行くときはね」

玲は窓の向こうを指した。

「ほら、あの角。夕方は向こうの海がよく見えるの」

澪が振り返る間に、建物の間を青い海が通り過ぎた。

「帰りも通る?」

「通るよ」

「じゃあ、帰りに見る」

玲が微笑んだ。

やがて道は海から離れた。

家の間隔が広がり、岩肌が近くなる。斜面の木々の向こうには、谷の影が見え始めた。

曲がり角をいくつか過ぎると、低い建物と車の停まった広場が現れた。

玲が鞄を持ち直す。

「着いたよ」

*

車を降りると、海辺とは違う匂いがした。

乾いた土と、木々の葉の匂い。

建物の入口へ向かう途中、道具を載せた台車が横を通った。

玲が押している人に声をかける。

相手は足を止め、端末を少し持ち上げた。

「北側の分、戻してあります」

「ありがとう。午後の確認は予定どおり?」

「はい」

玲が頷くと、台車はまた動き出した。

澪はその背中を見送った。

ここでは、皆が玲を知っている。

昨日の市場でもそうだった。

澪には知らない人でも、玲とは短い言葉だけで話が通じていた。

入口で見学者の確認を済ませると、玲は二人を明るい作業室へ案内した。

窓際に机が並び、壁には遺構の写真や図面が映っている。

中央の台には、浅い箱がいくつも置かれていた。

澪はその一つに目を留めた。

小さな石の破片だった。

一つずつ間を空けて並べられ、脇に番号がある。

「これも、遺構の?」

「うん。今、確認しているもの」

玲は台の端へ手を置いた。

「ここでは触らずに見てね」

澪は頷き、少し身をかがめた。

似た色の破片なのに、割れた面はそれぞれ違っていた。

*

「玲」

奥の机から、女性が顔を上げた。

玲が手を上げる。

「おはよう、サラ」

サラは手元の資料を置き、こちらへ歩いてきた。

玲が二人を紹介すると、サラは澪へ視線を合わせた。

「ようこそ。リュキアはどう?」

「海が、きれいでした」

言ってから、昨日の市場も思い浮かんだ。

「あと、トマトが甘かったです」

サラが笑った。

「もう市場へ行ったのね」

「昨日、三人で」

玲が答えた。

「今日は少し案内してくる。午前の確認だけ済ませたら」

「ええ。見学路の更新、テオが持っているわ」

呼ばれた名前に、窓際の男性が顔を上げた。

小さな機器を台へ置き、端末を持ってくる。

「今朝の分です」

テオが表示した図を、玲と奏人がのぞいた。

「この区間は昨日と同じです。こちらの枝道は作業中なので入れません」

指が図面の一角で止まった。

「第七支谷の見学路は通れます。主回廊から円環側までです。その先は制限区域なので、まだ入れません」

「分かった。ありがとう」

玲が図を受け取る。

テオは机の下から、小さなケースを取り出した。

「それと、見学用の撮影端末も用意しています。今日はお使いになりますか?」

「撮影なら、うちの機材も持ってきているんだけど」

奏人が言う。

「もちろん使えます。ただ、第七支谷ではこちらの端末と同期していただいています。撮影位置や時刻、それに環境の記録をまとめて管理できるので」

「なるほど。ウェアラブルもつなげられる?」

「ええ。見学区域での撮影なら問題ありません。終了後、個人で共有できる記録をお渡しします」

澪が顔を上げた。

「じゃあ、友達にも見せられる?」

「公開できる範囲の写真ならね」

テオは笑い、ケースを奏人へ渡した。

「操作は簡単です。必要なら、イデアとも連携できますよ」

「ありがとう。借りていくよ」

澪も横から見た。

道がいくつも分かれていた。

線に囲まれた場所には、屋根のあるところと、ないところが色を変えて示されている。

「これ、全部つながってるの?」

「通れなくなっているところもあるけどね」

テオが答えた。

「今日は玲さんについていけば大丈夫」

「途中で私が止まるかもしれないけど」

玲が言う。

奏人が小さく笑った。

「それは昔からだな」

「置いていったことはないでしょう」

「待ったことならある」

サラまで笑った。

澪は玲を見た。

仕事場でも、ママはママだった。

*

出発前の確認は、少しだけ続いた。

玲はサラの机の横に立ち、写真を二枚見比べていた。

「これは同じ面?」

「ええ。撮影した時刻が違うの」

「こちらの記録も付けておいてもらえる?」

「分かった」

すぐに答えが出ることもあれば、二人で黙って見つめる時間もある。

澪は少し離れたところから、その横顔を見ていた。

通信の途中で玲が呼ばれると、いつも画面の外を向いていた。

その先には、こういう机があって、サラたちがいたのだ。

「どうした?」

隣で奏人が聞いた。

「ママ、いつもあんな感じ?」

「気になるものを見てるときはな」

澪はもう一度玲を見た。

自分の絵を見てくれたときにも、玲は少し黙っていた。

こちらを急がせず、目を動かしながら。

やがて玲が顔を上げた。

「お待たせ。行こうか」

*

拠点からさらに車で移動し、そこからは歩いた。

道の脇には低い石積みが続いている。

玲は途中で足を止め、石の色が変わっている部分を示した。

「ここは、あとから補ってあるの」

澪が見ると、同じような石でも、角の丸まり方が違っていた。

「全部、昔のままじゃないんだ」

「崩れないように支えたり、歩けるように直したりしているからね」

玲はその先の、地面に残った低い壁を指した。

「こちらは、建物の下の部分」

澪は壁に囲まれた地面を見た。

部屋だったのだと言われると、急に広さが分かった気がした。

けれど、入口はよく分からない。

「どこから入ったの?」

玲が回り込み、一か所だけ途切れた場所を示した。

澪もその前に立つ。

さっきまではただの壁の切れ目だったところが、入口になった。

奏人は石積みの横から、奥を見ていた。

「床は、もう少し上だったのか」

「そう。今見えているのは、その下」

澪は自分の足元を見た。

何もないように見える場所にも、まだ続きがある。

*

道が緩く上り始めた。

澪は石の出ているところを避け、玲のあとを歩いた。

玲は迷わず足を置いていく。小さな段差でも、歩く速さはほとんど変わらなかった。

澪は一歩の幅を変え、少し遅れて同じ段差を越えた。

――ママの歩く速さも覚えてきて。

結菜の言葉を思い出した。

玲はもう、次の曲がり角に近づいている。

しばらくして、玲が振り返った。

「休む?」

「まだ大丈夫」

「無理しなくていいよ」

「してないよ」

後ろから奏人が笑った。

「ネクサスでも動いてるからな」

玲は澪の足元を見て、頷いた。

再び歩き始めると、今度は二人の間があまり広がらなかった。

澪が段差を越えるまで、玲も次の一歩を少し待っている。

「じゃあ、次の日陰で水だけ飲もう」

「うん」

木陰へ入ると、首の後ろを風が通った。

澪は帽子を少し持ち上げ、水を飲む。

道の先で、谷が折れていた。

「第七支谷は、この向こう」

玲が言った。

澪は容器の蓋を閉めた。

*

初めに見えたのは、壁だった。

斜面に沿って、淡い色の石が長く続いている。

近づくと、その間に通路があった。

人が並んで歩けるほどの幅があり、奥には日陰が落ちている。

玲は見学路を示す小さな表示を確認し、二人を振り返った。

「ここから入るよ」

澪は頷いた。

入口を通ると、靴音が変わった。

それまで足の下で鳴っていた音が、少し前からも返ってくる。

澪は一歩進み、もう一歩進んだ。

右側には壁がある。

左側には細長い開口部があり、向こうの明るい場所が見えた。

通路の先へ出ると、頭上が急に開いた。

空だった。

四方を石に囲まれた小さな中庭に、草が生えている。

その向こうには、また影のある回廊が続いていた。

「外に出た?」

「ここは空いてるの」

玲も上を見る。

「さっきの図で、色が違っていたところ」

澪は振り返った。

歩いてきた通路が、暗い枠のように見えた。

入ったときには、そこまで暗いと思わなかったのに。

「ここ、何をするところだったの?」

「まだ、はっきりとは分からないの」

玲は中庭から続く道へ目を向けた。

「部屋や道のつながりは調べているんだけど、どう使っていたのかは、確かめているところ」

澪は壁の石へ目を向けた。

文字らしいものは見当たらなかった。

少し離れたところに、今の見学路を示す小さな印があるだけだった。

*

中庭の端で、微かな音がした。

澪は顔を向けた。

水のようにも、葉が触れ合った音のようにも聞こえた。

細い開口部がある。

玲は少し先で、通路の幅を確かめるように立ち止まっていた。

奏人もその隣で、壁の上の方を見ている。

澪は二人のあとをゆっくり歩いた。

帰ったら、今日のことを結菜に話そう。

昨日、市場で見たものも、まだ全部は話せていない。

海の写真は送ったけれど、石の通路ばかり写しても、結菜は面白いだろうか。

お土産も、何がいいかな。

市場で見た、香りのする小さな袋。

あれなら喜ぶかもしれない。

でも、せっかくリュキアに来たのだから、もっと珍しいものを探してみたい。

結菜なら、料理に使えるものの方がいいだろうか。

そんなことを考えながら、澪は何となく左手の壁へ視線を向けた。

淡い灰色の石が並んでいる。

浅い筋がいくつか走り、ところどころに小さな影ができていた。

ふと、その一部が手前にあるように見えた。

葉っぱだった。

薄い葉が一枚、石壁から少しだけ浮いている。

「……あれ?」

澪が目を凝らした途端、葉っぱの形は石の筋に戻った。

ただの曲がった筋だった。

澪は瞬きをした。

もう一度、ぼんやりと同じあたりを眺める。

けれど、さっきのようにはならなかった。

「……変なの」

「どうした?」

奏人が振り返った。

「今ね、葉っぱが浮いて見えた」

「葉っぱ?」

玲も戻ってきた。

「うん。壁から、ちょっとこっちにあるみたいに」

澪は石に触れないところで指を止めた。

「ここ。この曲がった線」

玲は顔を近づけた。

「……葉っぱには見えるね」

「でしょ。でも、さっきはもっと、こう……前にあったの」

澪は手のひらを少し壁から離してみせた。

玲は澪の示した位置から石を見る。

「私は、そこまでは分からないかな」

「もう見えないんだよね」

奏人も隣へ来た。

「さっきから何か考え事してたな」

「うん。結菜のお土産、何にしようかなって」

「それで壁を見てたのか?」

「見てたっていうか……何となく見てたら、急に浮いて見えたの」

奏人は指された石を眺めた。

「へえ。面白いな」

少し顔の位置を変えてみる。

「……葉っぱには見えるけどな」

「そうなの。今は普通」

澪も同じところへ目を戻した。

石の線は、さっきから何も変わっていない。

*

「……あ、こっちにもある」

澪が隣の石を指した。

玲が振り返る。

「えっ、もう?」

「うん。こっちは二枚あるみたい」

澪は半歩横へ動いた。

「ここから見るとね」

玲が隣に立つ。

「……どこ?」

「この細い線。ここで曲がってるでしょ?」

澪は空中で形をなぞった。

「こっちが一枚で、その後ろにもあるみたい」

玲は少し膝を曲げた。

「……ああ、この辺り?」

「そう!」

奏人も後ろからのぞいた。

「俺にはまだ分からないなw」

「パパ、こっちから見て」

「ここ?」

「もうちょっと右」

奏人が半歩動いた。

「……ああ、なるほど」

澪は満足そうに頷いた。

「でしょ?w」

ところが、今度は澪が少し首を傾けた。

「あれ。こっちから見ると丸い」

「丸い?」

玲が聞いた。

「うん。さっきは葉っぱ二枚だったのに」

澪は元の位置へ戻り、また横へ動いた。

「ほら。ここだと一つの輪みたい」

玲も同じように動いた。

「……本当ね。重なっていた線が、一つにつながって見える」

奏人は二人の横から壁を眺めた。

「同じ石なのに、見る位置だけでずいぶん違うな」

「うん。面白いねw」

澪は笑った。

そして、視線を隣の壁へ移した。

「……あ」

奏人が澪を見る。

「今度は何だ?」

「あそこも、何かある」

「……またかw」

玲が笑った。

「ちょっと待って、澪。まだこっちを見ているから」

「うんw」

澪は二人が見終わるのを待った。

*

次に見つけたのは、少し離れた石の細い筋だった。

澪には、それが枝の先のように見えた。

ただ、玲と奏人にはなかなか分からなかった。

「ここが枝でしょ?」

「うん」

「それで、この先がちょっと分かれてる」

奏人が首を傾けた。

「……どの線だ?」

「こっち。あ、違う。パパが見てるのは、その隣」

「……これか?」

「そうそうw」

奏人はしばらく黙って石を見つめた。

「……ああ、やっと分かった」

澪は不思議そうに父親を見る。

「そんなに見つけにくい?」

「いや、澪が見つけるのが早いんじゃないか?w」

玲も笑った。

「私も、言われなかったら気づかなかったかもしれないわ」

澪は石壁を振り返った。

言われてみれば、最初から全部が見えていたわけではない。

けれど、一つ見つけると、その隣にも何かがあるように思えてくる。

少し離れた石。

壁の継ぎ目。

日陰の端。

視線を動かしているうちに、また一つ、気になる線が見つかった。

「あ、ママ。こっちも」

玲が笑いながら振り返った。

「今日は澪の方が案内役ねw」

*

奏人は、すっかり足を止めていた。

澪が教えてくれた枝のような筋を、少し離れて眺めている。

近くではただの細い傷に見えたのに、距離を取ると別の線とつながって見える。

「……なるほどなあ」

玲が振り返った。

「あなたまで夢中になってるのねw」

「いや、これは面白いよ」

奏人は一歩左へ動いた。

「同じところを見ているつもりでも、気になる形が変わるんだな」

「そうね。表面の凹凸もあるし、光の影響もあると思う」

「さっきの葉っぱは、まだ分からないけどな」

澪が言った。

「浮いて見えたやつ?」

「うん。もう一回見たいんだけど」

「同じことが起きるとは限らないか」

奏人は壁から視線を外した。

「……そうだ。イデア」

『はい、奏人さん』

「今日の見学、少し詳しく記録しておいてくれるか?」

『もちろんです。旅行記録に追加しますね』

「テオに借りた端末ともつなげられるか?」

奏人は鞄から小さなケースを取り出した。

『はい。財団の見学用記録端末を確認しました。接続できます』

「じゃあ、お願い。澪が見つけた場所も残しておきたい」

『撮影位置と時刻を関連づけて記録できます。現地での記録は財団側に同期され、共有可能なものを旅行記録にも保存します』

「それなら助かるな」

奏人はケースを脇に置き、鞄の別のポケットを開いた。

「せっかくだから、ウェアラブルでも撮っておこうか」

取り出したのは、細いフレームのウェアラブル眼鏡だった。

玲がのぞき込む。

「持ってきていたの?」

「うん。旅行用にね。玲の分もあるよ」

「準備がいいわね」

「昨日、澪が市場の写真をあまり撮れなかったって言ってただろ?」

澪が顔を上げた。

「……覚えてたんだw」

「そりゃあな」

奏人は眼鏡を玲へ渡した。

「今日は、あとで見返せるようにしておこう」

玲は頷いた。

「いいわね。澪がどこから見たかも残せるし」

澪も自分の眼鏡を取り出した。

「じゃあ、私も撮るね」

『三名のウェアラブル機器を、見学用記録端末と同期しますか?』

イデアが尋ねた。

「うん。お願い」

澪が答えた。

『同期しました。見学区域の記録を共有します。公開可能な写真は、あとで皆さんの旅行記録にも送れます』

「これで、ママも見られる?」

『はい。玲さんは調査側の記録としても確認できます』

玲が頷いた。

「じゃあ、気になったところを残しておこうか」

奏人は眼鏡を掛けた。

視界の端に小さな記録表示が現れる。

玲も同じように眼鏡を掛け、壁を見た。

澪は二人の顔を交互に眺めた。

「……パパ」

「ん?」

「……眼鏡掛けると、ちょっと怪しいねw」

奏人が澪を見た。

「……そこか?w」

玲が吹き出した。

「ふふっ。確かに少し雰囲気が変わるわね」

「玲までかw」

澪は笑いながら、自分も眼鏡を掛けた。

「じゃあ、これ撮っておこう」

『記録を開始します』

眼鏡の端に、控えめな表示が灯った。

*

「まず、さっきの葉っぱ」

澪は最初の壁へ戻った。

「ここから見たんだよね」

『現在の撮影位置を記録しました』

イデアの声がした。

澪は壁の筋を撮った。

「でも、浮いて見えたときは、こんなにちゃんと見てなかった」

奏人が頷いた。

「それも残しておこう。何となく見ていたときだった、と」

『澪さんの説明として記録しました』

玲は少し離れた位置から、同じ石を撮影した。

「私のところからは、葉っぱには見えるけれど、少し形が違うわね」

「見せて」

玲が撮った映像が、澪の眼鏡にも表示された。

「……あ、本当だ」

奏人も自分の位置から撮ってみる。

「俺のはどうだ?」

「パパのは、ただの曲がった線みたいw」

「そうだな。俺にもそう見えてるw」

三人で笑った。

澪は改めて壁を見上げた。

石は動いていない。

三人の映像には、それぞれ違う角度から見た石の筋が残っていた。

見る位置によって、葉っぱに似ていたり、ただの曲がった線に見えたりする。

けれど、澪が最初に見た、石から浮き上がる葉っぱの姿は、どの画面にもなかった。

「……変なの」

小さくつぶやくと、玲が隣へ来た。

「でも、葉っぱに見えた線は残ったね」

「うん」

「それだけでも、あとで見返したら面白いと思うわ」

澪は頷いた。

*

撮影を始めてから、三人の歩みはさらにゆっくりになった。

というより、ほとんど進まなくなっていた。

「あ、こっちにも」

澪が言う。

「ちょっと待ってくれ。今、こっちを撮ってるんだw」

奏人が答える。

玲は少し離れた場所から二人を眺めた。

「ふふっ。今日は先へ進めるかしら」

「進むよw」

澪が笑った。

「……たぶん」

奏人が付け足した。

今度は玲まで笑い出した。

やがて、雲が日差しを遮った。

壁の上の方から影が薄くなり、さっきまで見えていた模様の輪郭が曖昧になる。

「あれ、消えちゃった」

澪が言った。

「光が変わったんだな」

奏人が空を見上げた。

玲も同じところを見る。

「この辺りは時間によって影の出方が変わるの。だから記録も、撮影条件を残すようにしているわ」

「じゃあ、今のも時間が分かる?」

澪がイデアに尋ねた。

『はい。撮影時刻も記録しています』

「よかった」

澪は少し安心した。

せっかく見つけたのに、あとで分からなくなったら残念だったからだ。

しばらくすると日差しが戻ってきた。

壁の上から明るくなり、細い影が再び現れる。

「ほら」

今度は玲が先に気づいた。

「少し出てきたね」

澪は頷いた。

同じ石なのに、さっきとは違うものを見ているようだった。

*

「ママ」

「うん?」

「遺構って、こんなに面白いところなの?」

玲が澪を見た。

澪は少し笑った。

「ちょっと退屈なのかと思ってた」

後ろで奏人が息を漏らした。

玲も笑う。

「そう思ってたの?」

「だって、石がいっぱいあるところだと思ってたから」

「石は、いっぱいあるな」

奏人が言った。

「うん。でも、ただの石じゃないんだね」

玲は少しだけ考えた。

「そうね。何に使われていたのか分かるところもあれば、まだ分からないところもあるの」

「じゃあ、ママも分からないものを見てるんだ」

「毎日ね」

澪は周囲を見回した。

長い壁。

細い開口部。

何も置かれていない中庭。

昨日、市場で見た玲は、買うものをよく知っていた。

店の人とも、迷わず話していた。

でも、ここでは分からないものを探している。

そのことが、少し不思議だった。

そして、ちょっと面白かった。

*

「……あ、待って」

先へ歩きかけた玲が足を止めた。

澪は二つの石を交互に見ていた。

一つには丸い筋がある。

その隣の石には、長く伸びた線が走っていた。

「こっちのも、一緒に見るとね」

澪は少し離れて、身体を傾けた。

「葉っぱが、水に流れてるみたい」

玲が戻ってくる。

「この長い筋が、水?」

「うん。グリーンオアシスの水路みたいな。葉っぱが浮いてるときの」

玲は少し腰をかがめ、澪の示した方から見た。

「……ああ、なるほど」

奏人も近づいてきた。

「どれだ?」

「パパ、ここ」

澪は眼鏡に表示された撮影位置を示した。

奏人がそこへ立つ。

「……ああ。今度はすぐ分かったw」

「慣れてきたんじゃない?w」

澪が笑った。

玲は二つの石をもう一度見比べた。

「私は、枝にも見えるかな」

「枝?」

「葉っぱが、まだここにつながっているような」

澪は線の端を見た。

言われると、そうも見えた。

流れていた葉が、枝の先で揺れている。

「……ほんとだ」

澪は玲の方を見た。

「ママも見つけたねw」

玲が笑った。

「澪が教えてくれたからね」

奏人は少し離れて、二つの石を見比べていた。

「どこまでが刻まれた模様で、どこからが石にできた自然の筋なんだろうな」

「それも、まだ確かめているところ」

玲が答えた。

「こうして見ていると、いろいろな形に見えるものね」

「うん」

澪は石の継ぎ目へ目を向けた。

線がそこで途切れているのか。

それとも向こうへ続いているのか。

少し離れると、また違って見えそうだった。

「……イデア」

『はい、澪さん』

「今のも、撮れてる?」

『はい。三名の撮影記録を保存しました』

「ありがとう」

澪は微笑んだ。

あとで結菜にも見せよう。

きっと、何か言うと思う。

どんなふうに見えるのか、聞いてみたい。

*

「もうちょっと、見ててもいい?」

澪が尋ねた。

玲は空を見上げた。

太陽はまだ高いところにある。

「いいよ。ただし、少し休憩してからね」

「うん」

三人は日陰になった低い場所へ移動した。

澪は帽子を外し、水を飲む。

奏人は眼鏡に表示された写真を見返していた。

「……パパ」

「ん?」

「まだ見てるの?w」

「ああ。これ、見返してみるとなかなか面白いな」

玲も画面をのぞいた。

「あなた、澪より夢中になってない?w」

「そうかもしれないなw」

澪が笑った。

『本日の記録には、通常の旅行写真も含まれています』

イデアが伝えた。

「そうだ。イデア、ママと一緒の写真も撮っておいてね」

『もちろんです』

奏人が眼鏡を外した。

「じゃあ、三人でも撮っておくか」

「うん!」

奏人はテオから借りた端末を取り出した。

「これでも撮れるんだよな?」

『はい。カメラを使えます。三名が入る位置を案内します』

「便利ね」

玲が笑った。

三人は中庭へ戻った。

端末を見学路脇の平らな台に置くと、カメラの向きが小さく変わった。

『その位置で大丈夫です』

石壁を背景に並ぶ。

奏人の隣に澪が立ち、玲がその肩へ軽く手を置いた。

『撮影します』

合図に合わせて、澪が笑った。

『撮影しました』

端末から共有された写真には、三人の後ろに淡い石壁が写っていた。

さっきの模様は、小さくてほとんど分からない。

でも、三人がどこにいたのかは、よく分かった。

「……いいね」

澪が言った。

玲も頷いた。

「うん。いい写真」

*

休憩を終え、再び回廊へ戻った。

玲が先に歩き、澪がその後ろをついていく。

奏人は少し遅れて、眼鏡に表示された撮影記録を見返していた。

澪は途中で足を止めた。

「ママ、今度はこっちから見て」

玲が振り返る。

「どこ?」

澪は壁の手前へ立った。

「ここに来るとね、さっきの線がまた違って見えるの」

玲が澪の隣へ立った。

二人は同じ方を向いた。

「……ああ。本当ね」

玲が言った。

澪は少し嬉しくなった。

その先にも、気になる石があった。

見学路はまだ続いている。

ここへ来るまでは、玲のあとを歩いていた。

足を置く場所を見て、曲がり角で追いついて。

今は、玲が自分の隣にいる。

澪が見つけた石を、同じ高さから見ている。

「ママ、こっちにもあるよ」

玲が少しだけ位置を変えた。

「ほんと。よく見つけるわね」

「だって、見えるんだもんw」

玲が笑った。

「そうね。私も、もっとよく見てみようかな」

少し離れたところで、奏人が声を上げた。

「澪、玲。こっちも撮っておこうか」

「はーい」

澪は振り返った。

回廊の向こうから、また小さな音が届いた。

葉が触れ合うような、水が流れるような音。

澪は一度だけその方を見た。

それから、隣に立つ玲へ笑いかけた。

「ママ、行こう」

「うん」

今度は澪が先に歩き出した。

玲はその隣へ並んだ。

二人の少し後ろを、奏人が楽しそうについてきた。

古い石の通路には、三人分の靴音が重なっていた。

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