夕暮れのキッチン
小暮家のキッチンには、包丁がまな板を叩く小気味よい音が響いていた。
「結菜、これくらい?」
「うん。ひより、もうちょっと薄くしてみて」
「こう?」
「そうそう。それくらい!」
ひよりが切った野菜を皿へ移すと、結菜は鍋の蓋を少し持ち上げた。
ふわりと湯気が立ち、香草の匂いが広がる。
窓の外には、夏の夕方の明るさがまだ残っていた。
「ねえ、こっちの味、もう一回見てもらっていい?」
ひよりが小皿を差し出した。
結菜はひと口味わって、少し考える。
「さっきよりいいかも。でも、あと少し酸味があってもいいかな」
「やっぱり? 私もそう思った」
「じゃあ、ちょっとだけ足してみよう」
二人で顔を見合わせ、笑った。
「ただいま。あら、今日はずいぶんいい匂いね」
キッチンの入口に、母の香苗が立っていた。
「お母さん、おかえり!」
「お邪魔してます!」
ひよりが頭を下げると、香苗は二人の手元をのぞいた。
「何を作ってるの?」
「いつもの料理を、ちょっと変えてみたの。香草の組み合わせと、ソースも」
結菜が鍋を示す。
香苗は小皿を受け取って味見した。
「……あら、おいしい。さっぱりしていて、夏にいいわね」
「やった!」
ひよりが結菜を見る。
「ね、もう少しだけ酸味を足したの正解だったでしょ」
「うん。ひよりが言ってくれてよかった」
香苗は微笑んだ。
「もうすっかり二人に任せられるわね。何か手伝おうか?」
「大丈夫。あとは仕上げだけ!」
「じゃあ、お願いしようかしら」
香苗がリビングへ向かうと、結菜はカウンターの端に置いたノートを開いた。
「ひより、さっき足したの、どれくらいだったっけ?」
「最初の半分くらい。あ、でも一度に入れてないよ」
「そうだった」
結菜は材料と分量を書き足した。
野菜を薄く切ったこと。火を弱めたタイミング。香草を混ぜた順番。
同じ料理でも、ほんの少し変えるだけで味が違う。
その違いを忘れないようにするのが、結菜は好きだった。
ひよりが洗った道具を片づけ始めた頃、結菜の視線が端末へ向いた。
澪から届いたリュキアの写真が並んでいる。
青い海。石造りの街並み。昨日は市場で見つけた香辛料の話も届いた。
《これ、何に使ったっけ》
そんな短い言葉を思い出して、結菜は小さく笑った。
今頃、澪は玲や奏人と第七支谷を歩いているだろうか。
古い石の通路。見たことのない風景。
そして、リュキアの遺跡といえば――。
気がつくと、ノートに文字を書いていた。
《セフィリア》
その下に、もう一つ。
《三碑文》
結菜は二つの言葉を線でつないだ。
さらに《古代文字》《白い人影》《澪が言った名前》と書き足す。
《私にも見えた》
そこからもう一本、線を引こうとして、手が止まった。
「……あっ」
「どうしたの?」
ひよりが振り返った。

「……料理のノートに、違うこと書いちゃった」
結菜がノートを少し持ち上げる。
「セフィリア?」
ひよりは文字を読んで、くすっと笑った。
「結菜、ずいぶん気になってるんだね」
「だって、まだよく分かんないんだもん」
結菜はもう一度、書いてしまった言葉を見た。
「これ、別のノートに移そうかな」
「うん。そのほうがよさそう。料理の分量と混ざっちゃうよw」
「だよねw」
棚から薄いノートを一冊取り出す。
結菜は真ん中に《セフィリア》と書いた。
その周囲に、三碑文、古代文字、澪、白い人影。
思いつくままに、細い線でつないでいく。
「その書き方、面白いね」
ひよりが隣からのぞき込んだ。
「これ? 澪がよくやってるの」
「澪が?」
「うん。思いついたことを先に書いて、あとから線でつないだりするんだよ。最初は関係なさそうなのに、いつの間にかつながってたりして」
「へえ。なんだか澪らしい」
「でしょ?」
結菜も笑った。
けれど、ノートへ視線を戻すと、また考え込んでしまった。
グリーンオアシスで見た、白い人影。
澪が口にした、聞き慣れない名前。
――セフィリア。
そして、リュキアにある三つの碑文。
それぞれに、調査でも意味の分かっていない古代文字があるという。
結菜は《三碑文》の横に、小さく《まだ不明》と書いた。
何か関係があるのだろうか。
そもそも、比べていいものなのだろうか。
結菜はもう一度《私にも見えた》へ目を向けた。
澪ほどはっきりではなかった。
それでも、あの場所に何かがいるように感じたことは覚えている。
「……なんで、私にも見えたんだろう」
「え?」
「ううん。あの白い人のこと」
ひよりも少し真面目な顔になった。
「澪と結菜が見たっていう?」
「うん。ちゃんと同じものだったのかも、分かんないけど」
「それ、澪と話してみたら?」
「……そうだね」
そこへ香苗が戻ってきた。
「セフィリアのこと?」
「うん、お母さん」
香苗は結菜のノートを見た。
「まだ気になっていたのね」
「だって、澪があの名前を口にした理由も分からないし、三碑文の文字のことも気になるし……」
「何かつながっているかもしれない、ってこと?」
「うん。でも、私が勝手にそう思ってるだけかも」
香苗は頷いた。
「分からないなら、分からないまま書いておけばいいんじゃない?」
「分からないまま?」
「そう。あとで何か分かったときに、今何を考えていたのか思い出せるでしょう」
結菜はノートを見下ろした。
《まだ不明》
その文字を消さず、そっと丸で囲んだ。
「……うん。そうする」
時計を見る。
日本は午後五時を少し過ぎていた。
リュキアは、まだ午前十一時頃だ。
「澪、もう見学終わったかな」
「連絡してみたら?」
ひよりが言った。
香苗も鍋の方を見て、微笑んだ。
「夕食まではまだ少しあるわよ」
「ありがとう、お母さん!」
結菜はノートをそばに置き、澪へ通信を送った。
*
リュキアの午前十一時
第七支谷からの帰り道、車内でも奏人は撮影した映像を見返していた。
「パパ、まだ見てるの?w」
澪が後部座席から声をかける。
「もう少しだけ。光が変わったところを比べてるんだ」
「旅行に来たんだから、景色も見てちょうだいねw」
玲が笑う。
奏人が顔を上げると、窓の外に青い海が広がっていた。
「ああ。これはこっちを見ておかないとな」
宿舎へ戻った頃には、十一時を少し回っていた。
澪はソファへ腰を下ろし、水をひと口飲んだ。
「ふうー。いっぱい歩いたね」
「疲れたか?」
奏人が尋ねた。
「ううん。楽しかった!」
玲は上着を片づけながら言った。
「さて、お昼はどうしましょうか」
「まだ少し早いけど、今日は外で食べるか?」
「そうね。せっかくだから街へ出ましょうか」
澪が顔を上げた。
「何食べるの?」
「それを今から決めるんだよ」
「えーw」
奏人が笑った。
「澪は何が食べたい?」
「んー……おいしいもの!」
「はは。それはそうだろうな」
玲が近くの店を端末に表示した。
「昨日とは違うところがいいわね」
「海の方まで行ってみるか?」
「海!」
澪が身を乗り出した、そのとき。
端末が小さく鳴った。
「あ、結菜だ!」
すぐに通信をつなぐ。
「結菜!」
『澪! 今、話せる?』
「うん。ちょうど帰ってきたところ!」
『見学、終わったの?』
「うん。今日ね、すっごく不思議なもの見つけたんだよ」
『えっ、何?』
澪は今日の壁を思い出した。
「葉っぱみたいな模様。石の壁にね」
『葉っぱ?』
「うん。でも、じっと見るとただの線なの。結菜のお土産を考えながら、ぼーっと見てたら、ちょっと浮いて見えたんだ」
『浮いて?』
「そう。目を凝らしたら戻っちゃった」
結菜は首を傾げた。
『……難しいね』
「でしょ? 私も説明できないw」
二人は笑った。
『玲さんたちにも見えたの?』
「葉っぱみたいな形は見えたよ。でも、浮いてるのは私ももう見えなくなっちゃって」
『そっか……』
「場所で形も変わるの。パパとママと、いっぱい撮ってきた!」
『それ、見たいな』
「帰ったら見せるね。イデアが記録してくれたから」
結菜は手元のノートへ視線を落とした。
『ねえ澪。私も、ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
「なあに?」
『セフィリアのこと』
澪の表情が少し変わった。
「うん」
『澪、あのとき自分で名前を言ったんだよね』
「うん。……そう言ったみたい」
『どうしてその名前が出たのか、今も分かんない?』
澪は少し考えた。
「うん。あのときは、そう呼ぶんだって思った気がする。でも、どうしてかは……」
『そっか』
結菜はノートに書いた《澪が言った名前》を見た。
『リュキアの三碑文にも、分からない古代文字があるんだよね』
「うん。ママたちも調べてるって」
『それとセフィリアって、何か関係あるのかな』
「どうなんだろうね」
『全然違うことかもしれないけど』
「でも、気になるね」
『うん』
結菜は指先で《私にも見えた》をなぞった。
『それに、私にもあの白い人が少し見えたでしょ』
「うん」
『同じものを見たのかなって、ずっと考えてて』
澪は画面の向こうの結菜を見つめた。
「同じだったら、すごいね」
『そうだね。でも、違うかもしれない』
「じゃあ、そのことも書いとこうよ」
『え?』
「同じかもしれないし、違うかもしれないって」
結菜は一瞬きょとんとして、それから笑った。
『あ、それいいね』
ペンを取って、ノートの端に小さく書き足す。
《同じ? 違う?》
そのとき、画面の隅にひよりの顔が現れた。
『二人とも、さっきから難しい顔してるよw』
「ひよりもいたんだ!」
『いたよー。ずっと料理してたんだから』
「いいなー!」
結菜が笑った。
『それでね、私、料理のノートにセフィリアって書いちゃったの』
「ええっ?w」
『考えてたら、つい』
「結菜、それ料理じゃないよ!」
『分かってるよー!w』
三人の笑い声が重なった。
結菜は別のノートを画面へ向けた。
『だから、こっちに書き直したの』
「あ、マインドマップ!」
『うん。澪がいつもやってるみたいに』
「おおー。結菜、いっぱい書いたね」
『分からないことばっかりだけどね』
「私もだよw」
ひよりが笑う。
『じゃあ、二人で考えればいいじゃない?』
澪と結菜は顔を見合わせた。
「そうだね!」
『うん!』
「帰ったら一緒に考えようよ」
『ノート持っていくね』
「私も今日の記録、見せる!」
『楽しみにしてる』
少し離れたところから奏人の声がした。
「澪、そろそろお昼に行くぞ」
「あ、はーい!」
澪が画面に向き直る。
「結菜、私たちこれからご飯!」
『こっちは夕ご飯の準備だよ』
「同じ時間に話してるのにねw」
『ふふ、ほんとだね』
ひよりも手を振った。
『澪、旅行楽しんでね!』
「うん! またね!」
通信が終わった。
澪は端末を置き、ソファから立ち上がった。
*
小さな会議
「ずいぶん楽しそうだったな」
奏人が言った。
「うん! 結菜と会議してたの」
「会議?」
「セフィリアの会議!」
「はは。何か分かった?」
「ううん。全然!w」
あまりにもあっさり答えるので、玲も笑ってしまった。
「でもね、結菜が三碑文のことも気になるって」
澪は続けた。
「セフィリアと何か関係あるのかなって」
奏人は少しだけ考えた。
「……なるほど。今はどちらも分からないことが多いからな」
「うん」
玲は何も言わず、娘の顔を見た。
――セフィリア。
澪がかつて口にした、その名前。
三碑文について分からないことが残っているのも事実だった。
けれど、二つの出来事を結びつけるだけの根拠は、まだない。
玲は、澪が名前を口にしたことをサラたちには伝えていなかった。
三歳の頃の映像のことも含め、どう扱うべきか、自分の中で保留にしていた。
「……ママ?」
澪に呼ばれて、玲は顔を上げた。
「何?」
「お昼、決まった?」
玲は笑った。
「まだよ。二人とも、お腹すいてるでしょう?」
「すいた!」
奏人も頷く。
「じゃあ、調査会議はひとまず休憩だな」
「えー、まだ何も調査してないよw」
「それならなおさら、腹ごしらえが先だ」
三人は笑い合った。
玲はもう一度だけ、端末に残る第七支谷の見学記録へ目を向けた。
澪が今日見つけたものについては、いつかサラにも話してみよう。
だが今は、家族で過ごす昼の時間だった。
*
海の見えるレストラン
三人が選んだのは、海沿いの小さなレストランだった。
テラス席からは青い海が見え、遠くを白い船がゆっくり進んでいる。
「わあ、きれい!」
澪が席に着くなり声を上げた。
「今朝は谷を歩いていたのに、もう海だな」
奏人が言う。
「どっちもリュキアよ」
玲はメニューを開いた。
澪も写真をのぞき込む。
「これ、何?」
「魚料理みたいね」
「こっちは?」
「お肉かな」
「んー……」
「ずいぶん悩むなw」
「だって、みんなおいしそうなんだもん」
結局、三人は違う料理を選び、少しずつ味見することにした。
運ばれてきたのは、焼きたてのパンと、香草を使った魚料理、色鮮やかな野菜の一皿。
澪はひと口食べて、目を輝かせた。
「……おいしい!」
「よかったわね」
「ママ、こっちも食べてみて」
玲が少し取り分ける。
奏人はパンをちぎりながら言った。
「結菜ちゃんがいたら、材料を聞いてそうだな」
「うん。絶対ノートに書くと思う」
澪は笑った。
「でも、今日はセフィリアって書いてたw」
「料理のノートにか?」
「そう!」
奏人が吹き出した。
「それはなかなか面白いなw」
玲も笑いながら、グラスを取った。
食卓には海からの風が届いていた。
今朝の石壁も、古い文字も、澪の頭から消えたわけではない。
けれど、今は目の前の料理の方が、ずっと気になっていた。
食後、三人は近くの店が並ぶ通りを歩いた。
陶器やガラス細工が、店先の光を受けている。
「あ、ママ。ちょっと見ていい?」
「もちろん。一緒に行きましょう」
澪は小さな飾りを手に取らずに眺めた。
「結菜のお土産、何がいいかな」
奏人が笑う。
「まだ探してたのかw」
「うん。これっていうのが、まだないんだよね」
「まだ何日かあるんだもの。ゆっくり選べばいいわ」
玲が言った。
澪は頷いた。
第七支谷で葉っぱに見えた石の筋を、少しだけ思い出す。
でも、あれをお土産にはできないな。
そう考えて、ひとりで笑った。
*
明日と明後日
夕方、宿舎へ戻った三人は、少し休んでからリビングに集まった。
奏人が滞在中の予定を表示する。
「さて、明日はどうするんだったかな」
「水族館!」
澪がすぐに答えた。
「おお、そうだった」
玲も頷く。
「明日は私、仕事なの。午前中に資料を整理して、サラたちとも確認しておきたいことがあるから」
「ママは来られないの?」
「ごめんね。でも、明後日はちゃんと一緒に行くわよ」
奏人が予定表を進めた。
「明後日はクルージングだな」
玲の表情が明るくなった。
「そうね。海の上でランチ。楽しみだわ」
「ママ、楽しみ?」
「もちろん」
「お仕事は?」
「その日はお休みにするつもり」
奏人が顔を上げる。
「大丈夫なのか?」
「明日のうちに済ませられることは済ませるわ」
「それならよかった」
玲は予定表を眺めながら微笑んだ。
「せっかく三人そろっているんですもの」
「うん!」
「船の上でご飯食べるんだよね?」
「そうよ」
「楽しみ!」
奏人も笑った。
「水族館にクルージング。なかなか忙しい旅行だな」
玲が夫へ目を向ける。
「あなたも、遺構の映像ばかり見ていないで楽しんでねw」
「はは、分かってるよ」
澪がすかさず言った。
「パパ、帰りの車でも見てたよw」
「おっと、ばれてたか」
「全部見えてますw」
三人の笑い声が、窓の外の夕暮れに溶けていった。
*
その頃、日本では夕食の片づけが終わっていた。
結菜は自分の部屋で、薄いノートをもう一度開いていた。
真ん中に《セフィリア》。その周りに、今日書き加えた言葉。
《三碑文》の横には《まだ不明》。そして、《同じ? 違う?》。
結菜は少し考え、空いている場所にもう一つ書いた。
《澪と一緒に考える》
ペンを置く。
答えは一つも出ていない。
それでも、書き始める前とは少しだけ違う気がした。
遠く離れたリュキアでは、澪の眼鏡に第七支谷の記録が残っている。
日本では、結菜のノートにまだつながらない言葉が並んでいる。
二人は、それぞれ別の場所にいた。
けれど、今日見つけたものを、帰ったら一緒に見ようと約束した。
結菜はノートを閉じ、机の端へ大切に置いた。
夏休みは、まだ続いている。


